「古代朝鮮と日本との交流」――西谷正・九州大学教授
(朝鮮奨学会「古代史シンポジウム」から)
きわめて密接な関係築く 双方の歴史展開に大きな役割
朝鮮奨学会の創立100周年を記念した古代史シンポジウムがこのほど東京で開かれ、韓国、北朝鮮、日本の学者が東アジアの古代史に関する研究内容などを発表した。この中から西谷正・九州大学教授の「古代朝鮮と日本との交流」の要約を紹介する。
国際化時代といわれる今日、私たちが住む日本列島にとって、最も関係の深い外国は朝鮮半島である。歴史をひもといても、各時代にわたって、両地域間には密接な関係があった。
私たち日本列島人の大多数は、毎日、茶碗でご飯を食べる。身なりは、明治時代19世紀末の文明開化以来、西洋風だが、食生活の基本は朝鮮的だといっても過言ではない。というのは、茶碗は17世紀の初めに文禄・慶長の役、すなわち壬辰・丁酉倭乱に際し、西北九州などに連行されてきた朝鮮人陶工の一人、李参平が現在の佐賀県西松浦郡有田町の地で初めて焼いた磁器に起源があるからだ。
また、ご飯はさらにさかのぼって2千数百年前、ちょうど縄文時代の終末期に朝鮮の南岸地域から北部九州に伝来した稲作文化に始まるからだ。
ここでは、そうした日・朝交流の歴史を古代に限って、しかも発掘された考古遺物・遺構を通して振り返ってみたい。
まず旧石器時代から考えてみよう。同時代、朝鮮や日本は氷河期の影響を受けて陸続きになったことがあったかもしれない。そうした自然環境を考えると、中国山西省の丁村、朝鮮京畿道の全谷里、群馬県の権現山などの諸遺跡で出土する細石器に見られる親縁性は、当然のこととして理解できる。したがって、日・朝交流の始まりは旧石器時代にさかのぼって考えねばならない。
対馬の縄文時代遺跡の出土遺物を見ると、その中にごく微量ながら櫛目文土器が含まれていたり、対馬には生息せず朝鮮に生息していたキバノロの牙製装身具が出土したりする。
一方、朝鮮東南部の櫛目文土器文化の代表的遺跡として知られる釜山市の東三洞遺跡では、縄文時代各期の縄文土器が出土するばかりか、西北九州産の黒曜石およびその製品である石鏃(やじり)などが共伴している。また、朝鮮の南海岸地域にあたる欲知島では、縄文時代早期末の九州の轟式土器のほか、朝鮮で初めて縄文時代によく見る石匙(さじ)が出土している。
これらの諸事実は、両地域の人々の間で何らかの交流が行われていたことを物語ってくれる。
日本における稲作は、実はすでに縄文時代の終末期に開始されている。その代表的遺跡は、北部九州の佐賀県唐津市の菜畑遺跡だ。そこでは炭化米が水田跡から検出され、木製農具を伴っていた。木製農具の製作に使われていた磨製石器や、稲の収穫具である石包丁の形式を見ると、朝鮮南部のものと共通している。そのほか、同時期の武器である磨製石剣・石鏃や墓制である支石墓を見ても共通点が指摘できるので、北部九州に始まった日本最初の稲作文化は、直接的には朝鮮南部から移植されたといえる。紀元前1千年紀の後半のころのことだった。
弥生時代中期後半から後期初めにかけて、日本には地域的な政治集団が形成され、朝鮮半島に設置されていた楽浪郡を通じて中国の漢帝国と外交交渉を行った。その過程で北部九州の国々と朝鮮との接触も増大し、朝鮮の先進技術が北部九州に流入した。その代表的なものは灰陶質の土器と鉄器だ。
4世紀末から5世紀初めのころ、つまり日本の古墳時代前期末から中期初頭のころ、土師器という日本固有の土器が一般的であった時代に、堅緻な陶質土器が出現する。この陶質土器や初期須恵器は、形式的に見て加耶地域のものに酷似している。この時期に板状鉄斧に代わって鉄鏃が、福岡県宗像郡の沖ノ島祭祀遺跡などで出土するほか、鋳造鉄斧が出現する。後者の古い例が岡山市の金蔵山古墳などで知られる。これらの鉄製品は、ともに新羅を中心として加耶の地域などでも見られるものだ。
こうした遺物ばかりでなく、古墳の構造においても顕著な現象が現れる。それは、福岡市南区の老司古墳第3号石室における竪穴系横口式石室のことである。在来の竪穴式石室に、明らかに横穴式石室のアイディアが認められる。日本で初めて現れる横穴式石室のアイディアは、朝鮮のソウル市江東区可楽洞の古墳などで見られた百済前期の石室構造に関連づけられよう。
5世紀の中葉から後半にかけて、さまざまな新しい技術なり風習が、近畿地方を中心として広範な領域で少なからず認められる。それらはいずれも、日本の内部で自然発生的に出現するものではなく、すべて朝鮮に起源を求めることができる。朝鮮といっても、須恵器や短甲のように加耶に求められるもののほか、ガラス製品など新羅に求められたり、鉄?・農具・装身具などのように加耶と新羅のどちらともはっきり起源を限定できないものがある。そして、横穴式石室のように百済系統のものまで含まれる。
そのような現象の背景を考えるとき、5世紀の日本と朝鮮の諸関係は、基本的には高句麗・新羅と、百済・加耶・倭という相対立する二つの大きな勢力圏の中で考えるべきであろう。
7世紀後半にはいると、新羅は中国の隋や唐と結んで、高句麗そして百済を相前後して滅亡させた。その結果、友好あるいは同盟関係にあった高句麗や百済から、一部の人が政治亡命者として倭に渡来してくることになったらしい。そのことは結局、高句麗や百済の先進文化を倭へ流入させることにもなった。
一つは、中央政権の所在地であった近畿地方や、さらに近畿地方を媒介として関東地方へと、高句麗文化が伝来している。前者の例としては、仏教寺院の屋根瓦に高句麗系の鬼面文瓦が見られる。後者の場合、埼玉県日高郡の大寺廃寺跡が高句麗人の氏寺と考えられることなどだ。
もう一つには、百済系の文化が認められる。北部九州でいえば、太宰府を防衛するために築かれた、いわゆる朝鮮式山城が大野城と基肄城に残っている。それらの山城の構造や築城方法は百済の山城との共通点が多い。同時に「日本書紀」に見えるように、665(天智天皇4)年に、百済人の技術指導によって築かれたという記事とも符合する。
一方、統一新羅系の文化も少なからず見られる。日本の中央政権の中心地であった近畿地方では仏教寺院が盛んに造営されるが、双塔式伽藍・壇上積基壇・屋根瓦などに新羅の仏教寺院の営造方式の系譜を引くものが多い。
北部九州の豊前地方では、統一新羅系の屋根瓦を出土する寺院が多い。豊前といえば、大宝2(702)年の戸籍に勝(すぐり)という姓を持った氏族が多く見られる。勝はもともと新羅の階位の村主(すぐり)に由来するので、勝姓が多いということは、新羅系の渡来人が多くいた可能性が高い。また、豊前の香春神社の祭神が、新羅の神であることは「豊前風土記」などの記録からうかがえる。
これまで見てきたような7世紀後半、つまり白鳳期を続けて8世紀の天平期に入ってからも、引き続いて日本と統一新羅との間で頻繁な交流が展開した。
まず、当時の宮都があった近畿地方の奈良市にある平城京跡では、新羅製の緑釉陶器のほか普通の新羅土器の出土がある。これなどは、新羅と奈良の二つの王朝間の外交の過程でもたらされたものであろう。そして、聖武天皇の遺品を納めている正倉院宝物の中には、これまで知られていた伽耶琴や墨などのほかに、予想以上に多く新羅製品が含まれていることが、慶州の雁鴨池の発掘調査による出土品との対比研究などから明らかになってきた。
古代の日本列島と朝鮮半島の関係は、時代によって交流の内容に差異はあるものの、歴史的にきわめて密接で、しかもそのことは日本と朝鮮それぞれの歴史的展開に大きな役割を果たしたことを改めて痛感する。
にしたに・ただし 1938年生まれ。京都大学大学院修士課程修了。九州大学文学部教授、佐賀県立名護屋城博物館館長などを歴任。現、九州大学大学院人文科学研究院教授。主な著書に「考古学による日本歴史」。