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2000/10/20

<韓国文化>新羅・伽耶の不思議<7>

新羅・伽耶の不思議 <7>

 新発見の波形文壁画
 深まる中央アジアとの文化関係

古代新羅・伽耶と中央アジア諸国との文化関係が注目されている。慶州地区や伽耶から出土する数々の遺品によって、中央アジアとの文化的共通性が集約されつつある。ここに紹介するウズベキスタンのジャルテパ壁画のギリシャ渦文(波形文)もそれを裏付けるもう一つの事実で、日本では本紙が最初の紹介例となる。

 前回のアフラシーアーブ壁画で見た通り、古代新羅と中央アジアとの文化的接触は明らかな過去の事実だ。なぜ新羅が中国ではなく、そのはるか彼方の地に先進文化を求めたのかは、大きな謎であり、一大課題である。

 ギリシャ渦文という仏教系とは異なる、北方系文様が慶州・味鄒王陵地区の嵌玉黄金短剣に用いられていることは既に見た通り(本シリーズ第⑤)である。そこには同時にケルト特有の巴文、そしてギリシャ・ローマ文化の象徴ともいうべき月桂樹文(ローレル文)も使われるという注目すべき事実もあった。このアキナケス型短剣は、ウズベキスタンに隣接するカザフスタンのポロウオエ遺跡からも同型の黄金剣が発見されているほか、サマルカン下流のブラハのバラフシア宮殿壁画、さらには新きょうウイグルのキジール千仏洞壁画にも描かれ、特にバラフシア壁画にはギリシャ渦文も添えられ、文化的関連の深さを物語っている。

 ジャルテパは、サマルカンドの東10㌔にあって、ウズベキスタン領内にある。1990年頃、新たに7~8世紀のものと思われる壁画多数が発見され、その中の1枚がここに紹介する画(模写図)である。武人らしき人物が武具(長剣か)様のものを握って立っている。その右側に、流麗で手慣れた熟練さはないが、しかし端正で品位あるギリシャ渦文(波形文)が二重の逆回転文で描かれている。

 この文様を見た瞬間、筆者はアッと心中で驚きの声をあげた。それは紛れもなく、伽耶の環頭大刀(5世紀)の柄頭に銀象嵌された文様とそっくりだったからだ(伽耶環頭大刀については、本紙99年3月5日号紹介)。

 5世紀と7~8世紀の年代差はあるが、中央アジアからの北方文化が伽耶に伝播した推移を考えるならば、粉本を含む北方の文化が相当古くから伽耶に伝わっていた可能性を示唆する新たな事態といわねばならない。

 もともと紀元前16世紀頃の西アジアに起源するというギリシャ渦文は既に前16世紀のギリシャ、ミケーネ時代の戦車戦士像に登場し、下っては紀元2世紀、黒海東岸ドナウ川下流のアダムクリシに建つローマ軍人、トラヤヌス帝記念柱、さらにはローマ帝国治下のシリア、パルミラの軍人像にも登場する。この軍人や武器に結びついたギリシャ渦文の思想が、東の端(はて)の伽耶の地に迄到達していることに改めて驚くのである。

 このような文化相と歴史から垣間見ることが出来るのは、新羅や伽耶が中国やペルシャ系の文化を避けて、わざわざ遠方の遊牧民文化と交流している事実である。新羅は建国の祖、赫居西居世干(ハン)以後、22代の智證麻立干(マラハン)の503年迄、北アジア遊牧国家の君主の称号である干(汗)を使用している。掛陵(元聖王陵)や興徳王陵にはイラン系武人の石像が王陵を守っている。この辺に新羅文化の深層を理解する大きな鍵が秘められているかもしれない。