今から1500年も前に、古代新羅がはるか彼方の中央アジアの国々と通行し、文化交流していたとしたら。そして一体誰が、なぜ、そしてどのようにして。今なお、人々の想像すら拒むこの古代の出来事は、偶然の発掘から発見された古代壁画によって過去の現実だったことが判明した。それがサマルカンドのアフラシーアーブ壁画(690~714年頃)である。
ソグド人国家
サマルカンド
サマルカンドはウズベキスタン第2の都市だ。紀元前10世紀頃より存在した歴史ある古いオアシス都市で、イラン系のソグド人によって商業・文化が栄えた。
全長50㌔のゼラフシャン川の中流域にあり、下流には同じソグド人のブラハがある。サマルカンドは紀元前329年、ギリシャのアレクサンドロス大王遠征軍に支配され、その後紀元6世紀には突厥(チュルク族)の支配、そして714年にはアラブ人の侵略を受け、このとき壁画を含む都市文化が破壊され、サマルカンドはイスラム化した。この間にあっても、ソグド人たちはオアシス都市の機能を生かして、東は中国、朝鮮にまで国際商人として進出し、東西文化の中継・伝達者として活躍したのである。
壁画の中の
新羅人男女図
現サマルカンドの北側部分がアフラシーアーブの丘と呼ばれる一帯で、ここの宮殿址から1965年、1号室~10号室にわたって、彩色壁画群が発見された。特に1号室大広間には破壊を免れた壁画が、1辺11㍍、東西南北の4面に、高さ2・7~1・0㍍で描かれていた。
両壁(画高2・7㍍)には、サマルカンド王ワルフーマンが世界各国||アフガニスタン、インド、イラン、東トルキスタン、そして東端の新羅など||からの使節を応接する図が描かれている。
その一隅に、二人の新羅人が鳥羽形の冠帽を被り、環頭大刀を腰に吊し、拱手(きょうしゅ)して描かれている。服装、鳥羽冠とも高句麗とは異なっており、日本書紀の新羅人の記述、唐の章懐太子李賢墓壁画などからも、これが新羅人であることは間違いないところだ。しかも、648年に唐服を採用した新羅だが、壁画の人物はそれより古様の胡服で描かれており、より本来の新羅人の姿である。
気品溢るる王女像
新羅王女ならびにその女官たちと目されるのが北壁(画高約2・7㍍)の「新羅王女船旅図」である。王女とは、発掘者L・アリバウム氏によってそう呼ばれたものである。
10名の女性たちが描かれた図には、チマ姿をしたり、新羅特有の伽耶琴を弾き、五絃琵琶を奏でる女性がいる。高句麗の双楹塚(そうえいづか)、水山里や徳興里古墳の女性像、また高句麗系の高松塚古墳の女性服とは異なることは一目瞭然だ。
その中央にひときわ大きく、叮寧に描かれている王女像。鼻はまっすぐで小高く、目は細めがち、唇は小さく結ばれている。耳には大きな耳飾り、首からは大きな胸飾りが垂れ、新羅古墳の出土状況とも一致する。気品に満ち、香華溢るる一場面である。(頭部拡大図=本シリーズ③掲載)。
新羅の慶州からサマルカンドまで陸路の直線距離にして約5500㌔、この間幾百の山河が横たわっている。この一枚の壁画なくしては、この文章の説得力は微塵もない。古代新羅人が、女性でさえも、はるばる命をかけて接触しようとした古代西方文明との出合いの瞬間を、この画は証しているように思える。