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2000/08/11

<韓国文化>新羅のクスノキ文化(下)

 新羅(や伽耶)ではクスノキを聖樹とする文化があったと思われるが、その根拠となる点を以下に列挙したい。

 1.百済王陵の棺材がコウヤマキであるのに対し、古代新羅王陵の棺材にはクスノキが発見されており、黒漆が塗られていた(金冠塚)。このことは、新羅ではクスノキが聖木とみなされていたことを示す有力な物証である。研究によれば、クスノキとは古代伽耶語で「神が宿る霊妙の木」である。

 2.書紀・欽明紀に、「河内国茅淳(チヌ)の海に、雷のような仏教音楽が鳴り、クスノキが光って浮かんでいた。それを溝邉直(イケノベノアタイ)が海から拾い上げ、天皇に献じて仏像を造った」とする説話がある。この一文は新羅仏教を象徴的に表現したものと考えられる。すなわち、茅淳とは允恭天皇の「茅淳の宿」のあった所で、書紀・允恭紀には、新羅から80人の弔楽士が80隻の船に乗ってきたやってきたことが記されており、これを端的に表現したものであろう。現在でも80人のオーケストラ編成は大変な人数で、80人の弔楽士の奏でる金属楽器の激しさは、まさに雷音と映るであろう。また允恭帝は新羅とは特に深い関係があり、婚儀に際しても船81隻の品物が献上されている。また溝邉直とは5世紀後半の仏師・溝邉直氷田であり、安羅の伽耶人であることにも意味が付与されているのであろう。

 3.前記の一文は、クスノキが仏教伝来(552年)と共に唐突に登場している点でも、造仏材の思想が外国からのものであることを示すと考えられるが、さらにクスノキが彫刻史上から忽然と姿を消すのも新羅に起因していると思われ、クスノキと新羅との関係が一層明白となる。すなわちクスノキは、新羅・唐と百済・倭連合軍との白村江の戦い(663年)以降、新羅と倭の関係悪化と共に消滅しており、奈良時代(710~794)には木造仏はあまり造られず、平安時代になって木造仏が復活した時にはヒノキ材に変わっていた。

 4.新羅系の神・スサノオが「船材にはクスノキ」を指定する説話が書紀にあるが、船も仏像も内部を刳る彫刻手法が同じである点から、船同様に仏像にもクスノキ材を指定したものと考えられる。事実、法隆寺金堂・釈迦三尊の台座はヒノキだが、連弁の彫刻部分だけがクスノキで、また天蓋も同様に全体はヒノキだが、天人と鳳凰の彫刻だけはクスノキである。玉虫厨子や橘夫人厨子も連弁だけがクスノキである。

 5.韓国にはクスノキは産しないとの説は事実に反する。1900年代初頭、済州島に大樟林があったことが、日本人学者により確認されており、現在も韓国南海岸で自生している。また1500年代の韓国に、クスノキから樟脳を製造する専門家がいたことが報告されており、海印寺の八万大蔵経版木にもいくらか混じっている。

 6.新羅第4代王(昔脱解)は「多婆那国」(耽羅国、現済州島の出身であり、耽羅国とは古い関係が考えられ、新羅・伽耶の鉄とクスノキが交易された可能性がある。

クスノキ聖木思想の由来

 クスノキを聖木視する思想は、新羅にどう入って来たのであろうか。新羅は高句麗経由で中国の華北仏教・北魏仏教を受け入れたと思われる。木造仏はインドで白檀材で造られたのがその起源で、白檀の産しない中国では、同じ薬用材のクスノキが代用されたことが判明している。従ってクスノキを造仏材にする思想は中国仏教経由であると考えられるが、新羅が松でなくクスノキを特に選んだ理由は何であろうか。

 そこで考えられるのが、ギリシャ・ローマやスキタイで聖木とされた月桂樹(ローレル)との関係である。この見解はやや奇異に映るかも知れないが、ギリシャ・ローマ時代のギリシャ渦文が、伽耶の環頭太刀に発見されている事実(本紙1999・3・5報道)は、従来の考え方に一転を迫るものがあり、加えて月桂樹文(ローレル葉文)が新羅に到着している事実を考え合わせるなら、月桂樹聖木の北方思想との関連は、一概に否定できないものがあり、むしろ新羅においてはにわかに現実味を帯びてくるのである。そして果たせるかなクスノキと月桂樹は様々の共通点を持っており、単なる偶然とは考えられないものがある。

 新羅の仏教公認は527年であるが、沙門・墨胡子が高句麗から新羅を訪れたのは訥祇(トツギ)王代の417~457年で、公認より相当古い。高句麗へ仏教を伝えた前秦(372年)とは北方遊牧民族の■(テイ)族で、華北の五胡十六国の一つである。伽耶はすでに、452年に仏教寺院が建っている(『三国遺事』)。

 上記のように、クスノキを白檀の代用材として造仏材に使うことは、すでに中国でなされており、この思想は中国で発生したものである。しかし、歴史的に中国文化との接触の薄かった新羅が、そしてまた国内では大変少ない樹種であったクスノキを新羅が聖木として選んだ理由は何だろうか。そこには新羅への北方文化の影響があるであろう。

 古代ギリシャ・ローマ文化やスキタイ文化の影響は、ギリシャ渦文と呼ばれる波形文様が5世紀の伽耶にまで達していることから確認されており、ギリシャ・ローマやスキタイの月桂樹神聖視の思想が、新羅・伽耶に到達していたとしても、決して驚くべきことではなく、むしろ当然と見なければならないものがある。

 そして果たせるかな月桂樹とクスノキはともに同じクスノキ科の常緑広葉樹高木で、葉は深緑色で楕円形、葉長5~10㌢、樹皮は灰色と灰褐色、薬木で芳香を発することなどの多数の共通点が見られるのであり、新羅がクスノキを聖木としたとしても何らの不思議はないのである。

 さらに重要なのは、この月桂樹文(ローレル葉文)が新羅に到着している事実である。それは慶州・味鄒王陵地区から発見されたスキタイ系のアキナケス短剣(5~6世紀)である。王の右手に置かれていた黄金の嵌玉宝剣は、流麗なギリシャ渦文とローレル葉文、それにケルト巴文で総身が装飾されていた。

ギリシャ渦文の意味するところを知り、その文様を環頭太刀に利用した伽耶人であれば、このローレル葉文の何たるかもまた、よく知っていたに違いない。むしろローレル葉文の意味をこそ、もっとよく知っていたであろう。

 許された紙幅が少なく、詳しい記述は省いたが、上記のことから新羅がクスノキを聖木視したこと、またその思想とともに、新羅から日本へ数体の飛鳥仏のクスノキ仏がもたらされたこと、との考えには充分な歴史的根拠があり、合理性があるのである。