新羅王陵の木棺から黒漆塗りのクスノキ材が発見され、また韓国にもクスノキが自生している。日本では、韓国にはクスノキは産しないので、飛鳥時代のクスノキ仏はすべて日本製だとの考えが強い。しかし筆者の研究では、クスノキ材で仏像を造る思想は、新羅からもたらされたものであり、古代木造仏に関する従来の考え方は修正が必要であろう。そしてこの見解は、百済のマツ文化と新羅のクスノキ文化とを対比させることによって、より一層明白になる。
京都・広隆寺には2体の飛鳥木造仏がある。1体は日本の国宝第1号で名高い弥勒菩薩半跏思惟像(切手でも有名)であり、もう1体は通称「泣き弥勒」と言われている弥勒菩薩半跏思惟像である。飛鳥時代(552~710)の木造仏(17体)がすべてクスノキで出来ている中で、唯一例外のアカマツ製なのが国宝第1号の半跏像である。なぜ同じ寺に、異なる材料の古代仏が存在しているのであろうか。その真相を追求すると、マツを聖木とする文化(百済)と、クスノキを神木とする文化(新羅・伽耶)が浮かんでくるのである。そして新羅のクスノキ文化に、ギリシャ・ローマ時代の月桂樹の思想が流れている可能性があるとしたら、それは驚きではないだろうか。そして月桂樹とクスノキは同じクスノキ科の樹木だったのである。
アカマツの半跏像については、これと瓜ふたつの金銅半跏像が、百済故地の忠清道から発見されていることや、忠清道の摩崖仏の例、および「広隆寺由来記」(『山城州葛野郡楓野大堰郷廣隆寺来由記』)に百済から献上と書いてあることから、百済製と見るのが妥当である。
一方、クスノキの「泣き弥勒」については、616年に新羅が仏像を広隆寺に安置した記録から、616年説が有力である。聖徳太子の入滅(622)を悼んで新羅が献上したのが、623年の法隆寺・夢殿の救世観音と考えられ、様式上からも新羅仏の特徴を備えている。韓国でもクスノキは自生しているので、クスノキ仏を新羅製だとする見解には合理性がある。
マツ文化の百済
マツ(松)はもともと日本にはなかったとしたら、信じられるであろうか。果たせるかな、魏志・倭人伝には倭自生の九つの樹種には含まれていなかった。また専門家の花粉調査から、近畿地方のマツは古墳時代から現れ始め、韓国からの陶質土器(須恵器)の到来とともに北上したことが判明している。窯跡の樹種分析によれば、近畿地方では鎌倉時代でも、樹種に占めるマツの割合はまだ20~30%であった。一方の韓国や中国では、花粉調査からマツは約7000年前から存在していた。
百済は中国南朝(宋・梁・陳)の文化を取り入れ、仏教とともに、儒教や道教・神仙思想が盛んであった。忠清南道扶余郡窺岩面の型押しの画?には、道教寺院がマツの山々を背景に建っており、また百済武王の王宮池には神仙思想を表す方丈山が築かれていた。また近年発見された百済の金銅龍鳳蓬莱山香炉には仏教、道教、神仙思想が渾然一体となって表現されている。儒教や道教・神仙思想ではマツは聖なる木で、儒教ではマツは忠節のシンボルであり、神仙思想では仙人がその実を食し、長寿のシンボルである。
古代日本では、儒教や道教・神仙思想が百済からの五経博士や僧・観勒を通して取り入れられてきたことは、書紀に随所に表現されている。例えば、田道間守が不老長寿の実を取りに常世の国へ行く話や、嶋大臣と言われた蘇我馬子の池の話、仙人が龍に乗って飛び去る話など、数多い。そして忠節のシンボルとしてのマツは、書紀では日本武命の太刀の伝承や、聖徳太子が3歳にしてマツの忠節を讃える話(太子伝暦)などに見える。つまり、百済でも日本でもマツが聖なる木として認識されていた。そのマツは当時、日本にはあまり見当たらず、 そこでマツの代わりに棺材などの聖木に利用されたのが、「金松」と称されたコウヤマキ(日本特産)であろう。中国でもマツが聖木として棺材に利用されており、従って百済が聖木としてマツを造仏材に使ったとしても、文化史的に何の不思議はない。(この項つづく)