在日の女性たちで作る同人誌「鳳仙花」が今年、発行から10周年を迎える。在日女性が抱える悩みや思いを集めたエッセー集は、多くの読者の共感を集めた。主宰の一人である呉文子さんに、文章を寄せてもらった。
『鳳仙花』が創刊10年を迎えた。発刊の動機は、日びの暮らしの中で感じる喜びや悲しみ、悩みなどを生活者である女の視点で記録できたら、との想いからだった。金明美さんと沈光子さん、そして私の3人でスタートした。
当然のことながら資金も事務所もなく、手弁当であちこちの名曲喫茶店をはしごして、原稿のチェックや校正と編集作業をこなした。在日の女たちが発行する同人誌は皆無だったころで、それだけに私たちは使命感のようなものに燃えていた。
そうして1991年1月25日。待望の創刊号が誕生した。産まれたばかりの赤ん坊を慈しむように、何度も何度もページをめくりながら、感動で胸がたかなっていたことを思い出す。
創刊号は手作りの温かさ、ひいき目にみれば、”素焼き”の良さが伝わるような70㌻ほどのもので、目次をみると、いま活躍中の金真須美さんや沈光子さん、趙栄順さんたちが名前を連ねている。
発刊の喜びもそこそこに、「女たちの文集です、宜しく」と半強制的に押しつけながら、“種蒔き”に奔走の日びが続く。誤植の多い“不肖の子”ではあったが、「女たちもやるね、頑張れよ」とイデオロギー論争に明け暮れる男性たちからも熱いエールやカンパが届けられた。
女性たちからは「普通の女たちにも、こんなマダンがあるのね」「こんな雑誌を待っていたのよ」「私の苦労話も書いて」、と過酷な「身世打鈴(シンセタリョン)」が吐露されたのだった。それはまぎれもなくオモニたちの生活史であり、在日女性史そのものだった。
『鳳仙花』は普通の女たちが書く雑誌を標榜したが、文字さえ持たない一世や小学校をやっと出たオモニたちが多く、文字を読み、書くことが“普通”とは言えないのが現実だった。
やがてオモニたちの生きた時代を次の世代の娘たちが代わって回想する文などがぞくぞくと寄せられた。異国での差別や貧困、儒教的風土の中での桎梏などが綴られ、誌上での恨解き(ハンプリ)は、在日のオモニたちの“慟哭”そのもののように感じられた。
だが10年を経て、私は女たちの意識の変化の大きな波を実感せざるを得ない。16号の、「アイデンティティとジェンダー」の山下英愛さんや「私はわたし」の朴聖姫(星聖姫=ほしせいこ)さんにみるように、女性差別とナショナルアイデンティティに対して、「私はわたし」でしかないと開き直る。
また、日本人と結婚し5年間の海外生活を体験した30代の劉幸淑さんは、「私の居場所」のなかで、「私は韓国人でもなく日本人でもなく在日韓国人なんだ。ハーフでないダブルの感覚である」と言い、「自分の心の居場所は自己の尊厳が取り戻させた時に与えられるのだ」、と“自分の居場所”を定めている。
3人のアイデンティティ論はその動機も発想も微妙に違うが、アイデンティティの問題がこのようにはっきりと、またあっけらかんと論じられたことは過去には無かった。そういう意味でも女たちの生き様は確実に変わってきている。
もう一つの大きな変化は、いつごろからか日本の友も一緒に目次を飾るようになり、意見交換のマダンとなってきたことである。また地域社会での共生や、互いの国への留学、訪問などを通して、生活文化に根を置いた交流が誌面に映し出され、信頼と友情の小さな架橋ともなっている。
振りかえれば、「継続は力なり」の熱いエールに励まされて走り続けた10年だった。いま編集仲間は李光江さんを軸に、沈光子さんと趙栄順さん、それに私の4人である。私たちはゆるやかな協力関係を保ちつつ一歩ずつ前へと進んでいる。
最後に、今日まで支えて下さった読者の皆さんに感謝するとともに、趙栄順さんの編集後記を引用して、10周年の喜びを分かち合いたい。
「書くことは、時間の流れと景色の移ろいのなかで、しばし立ち止まり足元をみつめること。そこから産まれた言葉が、紡がれ織られ一条の布になる。書き手と読み手が『鳳仙花』という綿を織った。感慨と感謝 」。