高麗美術館の定期講座がこのほど、京都市北区の同博物館で開かれ、同館館長で京都大学名誉教授の上田正昭氏が「東アジアの中の倭国」と題して講演した。上田氏は、日本の国家形成を東アジアとの国際関係の中でとらえ、その実態を明らかにした。また、韓半島からの渡来人が果たした役割も強調した。講演要旨を紹介する。
朝鮮半島と日本との関係は、広くアジアの中で考えなければならない時代になった。海に囲まれている日本列島は、海を媒介にして海外からたくさんの人が入ってきているし、日本から海外へ出かけた人もいる。だから、アジアの中で日本列島を考えなければ、歴史の真実は見えてこない。
中央から歴史を考えるえるのではなく、地域から歴史を考えることも必要だ。その1番いい例が山陰地域で、最近の発掘結果を見ると明らかだ。島根県の斐川町から358本の銅剣が出た。これは腰の抜けるような大発見だ。全国で見つかっている銅剣全部合わせても約300本しかない。また、加茂町からは銅鐸が39個出た。弥生時代の青銅器文化を論ずるときに出雲を無視することはできない。
最近になって山陰の鉄の文化がすごいものであったこともわかってきた。これは東アジアの倭国を考える上で非常に大事なことだ。鳥取県宍道町の弥生後期の遺跡からは鉄を実際につくっていた鍛冶の炉が見つかった。安来市などからも弥生時代後期の炉が日本海側では初めて見つかり、鉄器も出てきた。
朝鮮半島南部が鉄文化のルーツ
「三国史」の魏書東夷伝に大変重要なことが書いてある。「国鉄を出す」とあり、朝鮮半島南部の辰韓、のちの新羅、伽耶の地、いまでいえば釜山から慶州にかけての地域に鉄を産した。鉄がたくさん出るので物を買うときに鉄を用いている。つまり貨幣の役割をしている。こういう鉄の文化のルーツは朝鮮半島南部と考えていい。紀元前2世紀ごろから鉄の生産をやっていたのは明らかだ。
中国は朝貢してくる国に位をやった。5世紀に倭国王は安東将軍という位をもらった。安東大将軍になったのは478年だ。百済も高句麗も420年に大将軍になった。大が付くのは1ランク上。国際社会では日本より百済や高句麗が上だった。新羅は朝貢せず、国際関係を持たなかった。朝貢するのは6世紀に入って。
当時の東アジアにおける倭国王の国際的地位は低かった。大将軍になったのは478年になってから。倭王武のとき。雄略天皇と考えていい。「宋書」の最後に、倭王は一番上の位を自称し、自分の部下に称号を与えている、と書いている。そして、478年を最後に600年まで中国王朝に朝貢していない。対中関係は中絶した。これは倭国と東アジアを考える上で非常に大事なこと。それだけではなく、そのとき倭王は驚くべき称号を名乗った。
それは、稲荷山鉄剣銘文(行田市)や江田船山古墳大刀銘文を見ればわかる。「治天下」という称号を使っている。これは中国の皇帝が使う称号だ。702年の大宝令が出るまで使った。
自立路線を歩んだわけだ。したがって朝鮮を侵略するということ当然が出てくる。倭国の王者は朝鮮半島南部の勢力を拡大するということを考える。そういう歴史を知って「隋書」を読まないと歴史の本当の姿はわからない。
「隋書」には600年になってやっと倭王が朝貢することが出てくる。そこに「内官十二等」とあるがこれは「官位十二階」のこと。東アジア社会は当時すべての国が官位制を持っている。新羅は十七階、百済は十六階、高句麗が十二階、どの国も官僚制を採用していた。
日本国という称号はいつごろ名乗ったか。大和朝廷という用語があるが、大和という国号は4―7世紀前半は使っていない。倭または大倭という国号を使っている。古事記にも日本書紀にも大和という言葉は出てこない。続日本紀の天平9年12月の条には「大倭国(だいわこく)を改めて大養徳(おおやまと)国とす」とあり、やまとという字はこの字を使った。天平19年3月の条に「大養徳国を改めて大倭国とす」とある。それではいつなったか。天平宝字元年(757年)の5月に制定された大宝令に出てくる。それ以後、日本の資料には大和を使うようになった。
倭国の基盤を強化したのは渡来の文化だ。朝鮮半島あるいは中国から渡ってきた人が、治天下大王の政治・文化形成に活躍することになる。朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちの渡来の姿をよく表すものが、「日本書紀」の雄略天皇七年是歳の条だ。須恵器製作者、馬具製作者、絵描き、機織り職人が5世紀の後半に百済から来ていることが示されている。高松塚古墳やキトラ古墳の絵師集団が非常に問題になっているが、渡来人おなかには絵描きの集団がいた。
5世紀後半の外交に通訳が
それから、私が注目しているのは、「譯語卯安那(をさめうあんな)」だ。5世紀の後半の外交に通訳が必要だったことを示している。朝鮮語と大和ことばが違ったことばになっていたことを教えてくれる。江田船山古墳大刀銘文の最後には「書者張安也」とある。この銘文を書いた張安とは中国人か朝鮮人だろう。日本人でないのは明らかだ。渡来人がものすごく活躍したことは間違いない。