第4回光州ビエンナーレの開会にあわせて、光州市立美術館で「郭仁植の世界 韓日現代美術50周年の礎―河正雄コレクションを中心にして」展が開かれている(6月29日まで)。郭仁植氏の美術世界について、美術評論家の千葉成夫さんに寄稿してもらった。
郭仁植氏は1919年に慶尚北道大邱に生まれ、1937年から日本に住み、1968年日本で亡くなった現代美術家である。その1950年代の素描から最晩年の絵画作品までを網羅し、画業の全貌を見ることができる展覧会だ。
在日の美術家として生涯を終えたのだが、日本の美術に少なからず影響を与えた美術家であり、日本の然るべき機関も、彼の画業の総合的な紹介に取り組むべきではないだろうか。
例えば、1960年代の彼のさまざまな、いわば実験的な作品は、日本の同時代の作例の一つであるとともに、中には時代に先駆けていていたものも含まれている。
その典型例が「ひび割れたガラスの作品」である。これはすでに幾人かの人々によって指摘されてきているが、そては直接的には日本の「もの派」ないしはその周辺に影響を与えている。
李禹煥のガラスと石の作品から、高松次郎の「単体」連作までだ。もちろん、それは郭仁植が「もの派」の祖だったということではない。新しい美術の刺激を求める彼の精神が、後続の世代に刺激をもたらしたということなのだ。こういう、彼の実験精神の波及、影響ということについても、あらためて見直されていいだろう。今度の回顧展は、その意味でも第一歩を記すものとなっている。
ところで、その「精神」、こころは、いうまでもなく誰よりも彼自身の事柄なのだった。彼は何か新しいものを作りたかった。ただたんに新しいものというよりも、まず彼自身のもの、彼に固有のものを作りたかった。ただたんに新しいものではない、何か本質的なものを実現したかった。そして、さまざまな実験の果てに、彼は紙という素材の場、つまりは平面作品の場にたどりつく。むかしも絵を描いていたから元に戻ったというのではなくてまったく新しいことのために平面という場をつかみなおしたのだ。1960年代も終わりころのことである。
元に戻ったのではない証拠に、ここから彼にとって本当の意味での「実験」が始まった。僕の眼にはそう見える。
だから、それからしばらくの間の彼の作品は、平面に場は移ったが実験的であり、きわめて刺激的なものも含まれていて、そのいくつかは他の人にまたも影響を及ぼしたと思われるが、基本的には試行錯誤の産物だったと、僕は考える。
紙の面いっぱいに小さな穴をあけた作品、点や小さなタッチ(筆触)で画面を覆った作品など、実に興味深いものが少なくない。そして、そこに見られる精神と感覚の緊張感は、その質の高さを示しているが、それでも、これらの作品は、今になってみれば、次に来るべき達成のために通らなければならない一地点だったように感じられる。
つまりそこをくぐって、郭仁植の達成がやってきた。画面は大きく、広くなり、色彩もさまざまになった。その画面を、繭のような形の小さなタッチ(筆触)が覆う。それはときに小さく、時に大ぶりで、画面を幾重にも覆い尽くすこともあれば、余白を残すこともある。方法、描法としてはきわめてシンプルで、その点ではそれ以前の実験性と対照的といいてもよい。
だがそのことは、その実験性が外面に見えるものではなく、内在化されて深化したことを物語っている。何に向ってどのように深化されたのか?絵画へ向ってでであり、絵画を超えるものに向って、だ。
光州市立美術館での開会式の日、僕はかなり前に会場へ行き、時間をかけて作品を見た。さいわい会場は静かで、じっくり見るには好都合だった。晩年の作品群をじっくり見ていると、僕には、絵画から絵画を超える、そのギリギリのところで、あちら側とこちら側と揺れる、郭仁植の姿を見る思いがした。
絵は、ときに深みのある赤のうちに明るさを湛えている。ときに、暗い黒で覆われながらそこから底光りの輝きのようなものが感じられる。
世界に明暗があるように、人の心に陰と陽がある。その意味では、彼の晩年の作品にも、人の心が必然的に有する幅が、陰陽として繁栄している。だがこの陰陽は、また、表現者としての郭仁植にとっては、絵画を超えようとする地平での、絵画の最終問題、最終課題としてあらわれてきたものなのである。