韓国の古典「春香伝」を題材に、日本の作曲家、高木東六氏が作曲したオペラ「春香」が、19、21の両日、神奈川県民ホールで上演される(同実行委主催)。同公演の意義について、藤井浩基・島根大学助教授に寄稿してもらった。
横浜で、日韓の人々がかつて共に手を携えて打ち立てた芸術の金字塔が、市民の手で54年ぶりによみがえる。4月19日、21日と上演されるオペラ「春香」である。韓国の古典「春香伝」を題材に高木東六氏が1947年に作曲、オペラ化した。
高木氏は1904年鳥取県米子市生まれ。東京音楽学校を経てパリに留学し、巨匠ダンディらの薫陶を受け、28歳の時に帰国。新進気鋭の作曲家、ピアニストとして活動を始めた。
当時、公演でしばしば韓半島を訪れていた高木氏は、自然と耳に入る現地の民族音楽に魅了され、五線紙を片手に採譜を重ねていくようになる。
日本では、その音楽について「哀調を帯びた」などと偏見に満ちた形容がなされていた時代に、高木氏は素晴らしさを見いだし、自らの作品にそのエッセンスを取り入れていた。その成果として作曲した「朝鮮舞踊組曲」は次々に賞を獲得。高木氏は一躍、作曲家として名声を確立した。
そして満を持して取り組んだのがオペラ「春香」であった。「春香伝」はパンソリの代表的な演目で、韓国の人々が愛してやまない純愛物語である。
高木氏は当時、劇作家村山知義氏率いる新協劇団の演劇「春香伝」を観てオペラ化を思い立ち、村山氏に台本を依頼。自らも作曲に打ち込み1941年に完成させた。
しかし戦局の悪化で、期待されながらも上演の見通しは全くつかなかった。さらに1945年5月、東京の空襲で高木宅は全焼。「春香」の楽譜も焼失した。高木氏は東京を離れ長野県の伊那に疎開した。
戦争が終わり、失意の中、伊那で疎開生活を送る高木氏に、思わぬ依頼が舞い込んできた。在日の人々が訪ねてきて「『春香』をもう一度書いてほしい。」という。しかも、完成までの生活費を保障するという望外の条件つきだった。
日々の食べ物にも事欠く混乱期にオペラをしようという発想、いつ完成、上演できるかもわからないのに生活費まで負担するという申し出に驚いた。しかも終戦後、在日の人々のおかれた苦しい立場や生活を考えると、その道のりの険しさは察してあまりある。高木氏は諌めるつもりで丁重に断った。
しかし、在日の人々の「春香」にかける熱意は微動だにしなかった。「こんな時こそ音楽が大切ではないでしょうか。」その音楽を愛する心に感激した高木氏は快諾。作曲に全力を傾けた。
47年「春香」完成。今度は上演に向け日韓双方の関係者が東奔西走した。在日の人々が生活を切りつめ、あらゆる面で支えた。その姿勢は戦後の復興をめざす日本の音楽界への大きな刺激となった。
幾多の困難を乗り越え48年11月に待望の初演が実現した。東京、大阪での一連の公演は大成功をおさめた。
しかし、その後、南北分断、朝鮮戦争(韓国戦争)という激動の影響の中で、「春香」は長らく上演されることはなかった。半世紀を経て日韓交流への気運が高まる中、横浜在住の高木氏を囲む音楽愛好家が中心となって「春香」再演を計画。
日韓それぞれの実力派が揃うほか、合唱などで多くの市民も参加する。
「春香」再演は日韓文化交流の記念碑的な催しとして、さらなる交流発展の契機となるだろう。
【読者プレゼント】
19日の公演に読者1組2人をご招待。希望者は東京本社まで。