2002年は「韓日国民交流年」。韓日両国でさまざまな催しが予定されている。交流年をどのように迎えるのが韓日友好に貢献するか、韓国社会を生活、文化、経済の多方面から研究する小倉紀藏・東海大学外国語教育センター助教授に寄稿してもらった。
日本の「文化」はおとなしい感じがするが、韓国の「ムヌァ(文化)」はダイナミックな感じがする。最近の印象である。
かつては決してそうではなかったはずだ。日本の「文化」は猛々しく暴力的に朝鮮にわたってかの地を破壊し、変形した。
そのとき朝鮮の「文化」は、民芸運動家の柳宗悦(1889~61)が規定したように、静かで質素で控え目で穏やかなものとして、つまり徹底的に受け身のものとして語られた。
その規定は実はオリエンタリズムに基づいた「悲哀」の押し売りだったのだが、当時の日本人が表明できる最も「良心的」な立場でもあったと感じられたので、柳は日本人だけでなく韓国人からも高く評価され、韓国から文化勲章までもらった。
時代は変わって韓国が高度成長の波に乗った頃、日本人の韓国文化へのまなざしも変わった。
ソウルオリンピックを前後して、日本では韓国ブームが巻き起こったが、このとき「ダイナミック」で「パワー」にあふれる力強い韓国文化というイメージが定着した。
90年代からの韓国ブームは、基本的に80年代の「パワフル韓国」を引き継いでいるが、それに加えて「かっこいい韓国」「おしゃれな韓国」さらには「かわいい韓国」というイメージまで浮上したのが大きな違いだ。
韓国のかっこいい映画、おしゃれな女優、かわいい歌手・・・やはり大衆文化の影響だろう。
そしてこれは、特に若者の感性の力が強いと思う。私は数年前、日本人学生をソウルに連れて行ったとき、女子学生が韓国の家や並木を見て「キャー、かわいい!」と声を挙げたのに仰天した。
失礼ながら私の感性では、韓国の普通の家が「かわいく」見えたことは一度もなかった。しかしその学生は、韓国のすべてがかわいいのだという。彼女はその後韓国にはまり、ついに留学してしまった。
このような「感性」(日本語)と「ヌッキム」(韓国語)の時代に、大衆文化はぴたりと合う。そして韓国は「世界化」のかけ声のもとに「文化を商品化する」という戦略をとってきたので、よくマーケティングされた完成度の高い「文化商品」が数多く出荷されている。
しかし80年代の韓国ブームにはあった「韓国人の心や歴史や思想を知りたい」という熱気が、今の韓国ブームには足りない感じがする。とにかくモノとヒトと感覚だけでつながりあっているようでもある。
大学の教室では韓国人の心や歴史や思想をろくに知りもしないにわか勉強の講師が、韓国映画やドラマを学生に見せてそれについて床屋談義をして授業を済ませてしまえる時代だ。
本格的な「日韓文化交流」の今こそ、韓国の文化・文明の総体と向き合うという壮大な覚悟が日本人に必要なのだ、などといえばあまりに大袈裟で鼻白むだろうか。