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2003/11/07

<韓国文化>江戸時代の韓日友好史紹介

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    「朝鮮紀聞」(江戸時代後期の折本)。来日した通信使の姿を描いている

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    「草梁倭館絵図」(江戸時代中期)。現在の竜頭山付近にあった倭館を描いたもの

 佐賀県立名護屋城博物館は1993年10月30日、「名護屋城跡並びに陣跡」に韓日交流の歴史を調査・研究・展示紹介し今後の友好・交流の推進拠点となることめざし開館。今年で10周年を迎え、記念特別企画展「4つの窓と釜山-東アジアの中の日韓交流-」を24日まで開催。

 従来、江戸時代の日本の対外関係は、「鎖国」という言葉で表現されてきた。日本人の海外への往来は禁止され、唯一長崎での中国人・オランダ人との貿易に限って許されていた、という考え方である。

 しかし、実際には、17世紀初頭に枠組みが形成され(当時の人々には「鎖国」という認識はない)、19世紀中頃まで維持されていた日本の国際関係は、①長崎における来日中国人・オランダ人との関係(長崎口)、②対馬藩を仲介役とした朝鮮国との交隣関係(対馬口)、③薩摩藩を通じた琉球王国との関係(薩摩口)、④松前藩を通じたアイヌ民族との関係(松前口)という「4つの窓口」により構成されており、これらの周辺の国々や民族が持っていた国際関係を通じて、日本は東アジア世界のグローバルなネットワークの中に位置づけられていた。

 今回の特別企画展第1部では、従来名護屋博物館が取り組んできた「日本列島と朝鮮半島との交流史」を中心とした展示から一歩幅を広げ、江戸時代の日本の多様な国際関係の中で日本と韓国(朝鮮国)との関係がどのようなものであったかということを、各地の貴重な歴史資料を通して紹介している。

 16世紀の壬辰倭乱は、朝鮮国に莫大な被害を及ぼすと共に、日本においても豊臣政権の崩壊を早めた。また、この侵略戦争による両国の国交断絶は、対馬の宗氏にとっては経済的な基盤を失いかねない「死活問題」であり、宗氏は国交回復交渉に全力を傾注し、1607年国交回復を果たす。こうして回復した江戸時代の韓日外交は、対馬藩を仲介役として「交隣」関係が幕末まで維持され、その間、通信使(「好(信義)を通じる施設」=対等関係)の12回にわたる派遣・接迎、釜山の倭館での貿易や交流などを軸に展開された。

 このように、江戸時代の日本が「4つの窓口」を中心に東アジア社会の中で形成していた国際関係は、ロシア・英国の日本近海への接近により崩壊の危機を迎える。1858年には日米通商修好条約をはじめとする「安政の5カ国条約」(米・露・英・蘭・仏)を締結し、日本は「開国」することとなり、独り「脱亜入欧」意識、「東アジアの盟主」意識を背景に、帝国主義への道を歩むことになる。

 第2部では、古くから日本列島の交流の窓口としての役割を果たし、現在では名実共に首都ソウルに次ぐ韓国第2の都市として、さらには東北アジアの中心港湾都市として世界から注目を集めている釜山の発展の歴史を、様々な資料を通じて紹介している。

 韓半島最南端に位置する釜山は現在人口380万人。海水浴場、古寺院、名勝地などが数多くあり、国内外からの観光客も多数訪れる。
 旧石器時代(2万~1万5000年前)から人間が住み始めたと考えられており、海雲台一帯から当時の遺跡が数カ所発見されている。そして、この時期からすでに日本との交流が行われていたと考えられ、それを窺わせる遺跡も釜山周辺や日本の九州北部で発見されている。

 その後、朝鮮朝時代(1392~1897)には3つの開港場が設けられえ、「倭館」が設置された。この倭館を拠点に日本人(対馬人)は、外交・貿易を行った。そのため、釜山は朝鮮朝時代後期の日本との関係において最も重要な地域となったのである。

 1876年に釜山港が開港すると、釜山は日本の大陸侵略のための植民都市に姿を変えた。1950年からの韓国戦争では、臨時首都として3年間、韓国政治の中心地となるとともに、全国から集まった避難民の生活中心地にもなった。休戦後は着実に発展を続け、現在では北東アジアの中心港湾都市として、世界3位のコンテナ処理数を誇る。

 佐賀県立名護屋城博物館の佛坂勝男館長は、「日韓の友好・交流の基本となるのは『歴史認識』であり、そういう意味で本館の活動には大きな意義がある」と語った。


◆ 「4つの窓と釜山」展 ◆

   日 時:24日まで展示中    
   場 所:名護屋城博物館    
   入館料:320円        
   TEL:0955・82・4905