「黄金の国・新羅」展が、奈良国立博物館で開催中だ。国立慶州博物館と奈良国立博物館の共催で新羅の黄金の装飾具、武器など210点を展示する貴重な催しである。
古来より韓国と日本は交流や交易によって深く結びついてきた。それは現代にも引き継がれ、新羅の都が置かれた古都・慶州市と同じく古都である奈良市とは姉妹都市の協定を結び、交流を深めてきた。
国立慶州博物館と奈良国立博物館は、相互学術交流を通じた友好関係を推進するため、1999年度に「学術交流に関する協定書」を取り交わした。この協定書に基づく学術交流事業の一環として、奈良国立博物館の所蔵品を中心とした「日本の仏教美術」という特別展を国立慶州博物館で開催した。さらには、両館の研究者による古代美術関連の合同調査活動などの学術交流を推し進めることで、一層の友好的な関係を築いている。それをさらに深めるため、同展が開かれることになった。
新羅は、洛東江の東側、現在の慶尚道全域に広がっていた辰韓12国のうち、慶州地方の斯盧国が次第に周辺諸国を併合して王権国家に発展したもの。斯盧国は紀元前57年頃に政治体制を整えて国力を伸ばし、鉄製武器による強力な軍事力を基礎として、周辺地域を併合しながら領土を拡張していった。
935年、高麗の王建に滅ぼされるまで千年の歴史を持る新羅だが、新羅といえば最初に慶州が思い出され、慶州といえば燦然と輝く金冠と市内のあちこちに山のようにそそり立っている大型古墳が連想される。
これらの古墳には、金冠をはじめとする金・銀製品とガラス製品など、当時では最高の技術により製作された膨大な量の華麗な威信財が副葬された。これらの副葬品からは当時の新羅の国力と金・銀細工技術、そして国際社会でのその位置が十分に推測できる。
1973年、韓国の文化財管理局(現在の文化財庁)では、慶州市皇南洞155号墳の発掘調査を行った。この古墳からは、飛翔する天馬が描かれた2枚の障泥が出土し、天馬塚と命名されることになった。障泥とは、馬に騎乗し走るときに跳ね上がる泥が騎乗者につかないように、馬の腹部両側にたらされた方形板のこと。発掘調査を通して、金冠塚・瑞鳳塚・金鈴塚・皇南大塚などと同様な新羅の典型的な積石木槨(もっかく)墳であることが明らかとなった。
積石木槨墳とは、地上あるいは地下に被葬者を安置した木棺と木槨を設置した後、人頭大の河原石で木槨を覆い、さらにその外側に盛土を盛ってつき固めた墳墓で、新羅だけに見られる独特な墓制だ。
天馬塚は、墳丘の規模が直径47㍍、高さ12・7㍍、最下底部径51・6㍍に達する単独円墳。墳丘内部には、地上に高さ2・1㍍、東西6・6㍍、南北4・2㍍規模の木槨を設置。木槨内部には、被葬者を納めた長さ2・2㍍、幅1・0㍍、高さ0・8㍍規模の木製副葬櫃を南北方向に設置。木槨の周囲には、大きめの河原石を基底部が径23・6㍍ほどの円形で木槨上面と同じ高さまで傾斜をつけて積み上げる。
世界的にみても新羅ほど金冠が多く出土した地域はない。新羅の金冠は、王や真骨(王族)以上という、最も高い身分階層の占有物であったとみられる。1921年に金冠塚において最初に発見されてから、現在までに新羅千年の古都・慶州で出土した金冠は計6点。その製作時期は5世紀後半から6世紀前半頃であったと推定される。
新羅の冠は、その材質によって金冠・銀冠・金銅冠・銅冠などに区分できる。金冠は、華麗な文様が刻まれた円形額帯に5本の立飾を鋲で固定し、額帯中央に樹枝形の立飾を3本、後面には鹿角方の立飾を両側1本ずつ装着するものが典型的だ。樹枝形立飾は生命樹である白樺を鹿角形立飾は鹿を象徴的に表現したもの。
金冠は華麗な外形とは裏腹に薄い金板で製作されており、また過多ともいえるほどに装飾が多いため、実際に使用したというよりは、墳墓の副葬品または葬送儀礼用具として製作されたと考えられる。この形態の金冠はシベリアのシャーマンの冠によく見られる。
※同展は奈良国立博物館で8月29日まで開催。入場料一般420円。TEL0742・22・3331。