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2004/07/09

<韓国文化>世界に誇る華麗な壁画

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 高句麗遺跡について長年研究を続けてきた歴史学者の李進熙さんは、今年5月に中国・集安の遺跡を訪ねて調査してきた。高句麗遺跡のすばらしさ、現地のようすなどについて、文章を寄せてもらった。

 高句麗の貴族たちの間で壁画古墳を作り始めるのは4世紀末頃からで、代表的なのが舞踊塚と角抵塚である。舞踊塚の女性たちの踊る姿とひだ付き長スカートは、とても優雅である。

 四神の石室に入り、北壁がライトに照らし出されると、玄武、青龍、朱雀、白虎が次々と暗闇の中に浮かび上がり、今にも壁面から飛び出してきそうな形相なのである。四神は中国の周代に登場し、星宿を霊獣に見立てたことから始まるといわれ、朱雀は春分の日に大鳥の姿を描く海ヘビ座に由来するとみなす説がある。青龍はS字を描くサソリ座、白虎はオリオン座に由来するという。

 玄武の玄は黒を意味し武は亀の甲羅をさす。甲羅は堅くて敵の攻撃から身を守るからだ。その極彩色のすばらしい壁画は、人々の目を向けさせる。

 日本でも高松塚古墳が見つかった1972年の春、そのすばらしい壁画が人々の目を朝鮮半島や中国大陸に向けさせた。

 東北アジアで強大な国づくりに成功し、独自の文化を築き上げた高句麗の文化、世界遺産に登録された今こそ、人類の遺産として調査・研究する知恵をしぼらないといけない。

 さて5月初、集安と桓仁の高句麗遺跡を踏査した。15度目の訪問だ。

 今回の集安行きは世界遺産への登録にむけて遺跡を大々的に整備したというので、その現状を見ておきたかったからである。また、太王陵の整備中に「好太王」と陰刻された青銅製の鈴が出土したというのも見逃せない。それが事実であれば、広開土王(好太王)の墓が太王陵か将軍塚なのかという長年の論争に決着がつくのである。

 問題の青銅鈴は集安博物館に展示されていた。高さ約5、6㌢、頂上部の径2・5㌢、下部の径は3㌢ほどで、縦に3文字ずつ「辛卯年、好太王、□造鈴、九十六」と陰刻されていて、金銅製の装飾30余点と一緒に見つかったという。中国では太王陵を好太王の墓とみなすのが通説であるが、青銅鈴はそれを裏づける画期的な発見となるわけである。

 鈴に刻まれた文字を観察しているとき、私はふと慶州の新羅古墳から発掘された青銅盒の銘文を思い出した。それは「乙卯年国岡上広開土地好太王壺?十」とあって、「国岡上広開土地好太王」は第19代王の死後に贈られた諡号である。死去は412年なので、問題の「辛卯年」がそれを遡ることはない。したがってつぎの辛卯年(451年)より古くなり得ないわけだが、死去して39年も後になって、諡号を刻んだ鈴を造って祭りに使ったとは、不自然だ。

 慶州のそれの乙卯年は彼の死から3年後の415年であるから、祭りのための器として造ったことに納得がいく。つぎに祭りのために造ったとすれば諡号を省略して「好太王」とだけ記すのは不遜だと言わねばならない。書体にも疑問があるなど、太王陵の主人公を左右する問題の鈴には疑問が尽きなかった。

 好太王碑とその周辺は人家を取り払って広大な公園に造成し、数百メートルも離れた太王陵がその中に収まっていた。朝鮮族の小学校も撤去されていて、さすが社会主義国・中国のやり方だと「感心」したものである。

 巨大な好太王碑の周りにはガラスを張りめぐらし、碑面を直に観察するのを阻んでいた。しかし直射日光の熱は逃げ場を失ない、碑面の傷みはかえって促進されると私は判断した。また、城壁の修復工事を完了したところだったが、城壁は石材を無造作に積み上げただけで、修復とは縁遠いものとなっていた。救われるのは基礎部分の数段だけが本来の姿を留めており、排水施設や城門の一部を発掘したまま保存していることだった。

 壁画を保存するためには古墳を密閉し非公開とすべきだが、展示室には実物大の壁画のレプリカか写真を掲げて研究者にも理解できるよう配慮しなければならない。

 ところが壁画の写真は色彩も悪く、また壁画の内容を知らないカメラマンが撮ったビデオを上映していた。

 世界遺産を大切に保存するのは当然のことだが、その中身を詳細に紹介して理解を深めるよう努めるのが当事国に課された責任である。世界遺産の名誉のために、敢えて苦言を呈しておきたい。


  イ・ジンヒ  1929年慶尚南道生まれ。57年明治大学大学院修士課程修了。明治大学文学部講師、和光大学人文学部教授などを経て、2000年4月から和光大学名誉教授。文学博士。専門は考古学、日朝関係史。