朝鮮工芸品への愛情、そして日本植民地下にあった朝鮮民族の自由を願った柳宗悦の生涯について、在日2世の美術研究家・韓永大氏の連載「柳宗悦と朝鮮 自由と芸術への献身」を、来週号より開始する。これまで未発表の資料も取り入れながら、柳宗悦の全貌に迫る一大企画だ。著者の韓永大氏が、本連載の意図などを寄稿してくれた。
アジアとりわけ朝鮮の自由と芸術に深い理解を有していた柳宗悦(1889~1961)について、本誌に連載することが出来ることは筆者の大きな喜びである。
柳の朝鮮工芸品への傾倒と愛情、それへの限りない歓びと慰めの感情表現は、柳の重要な一部分である。柳は朝鮮の宗教、特に石窟庵仏教彫刻から深い宗教体験をし、「慄(りつ)然と慄(おのの)きの、霊の異常な閃きを身に感じた」と語っている。こうした点は読者と共に味わいたい大切な点である。
柳は朝鮮民族には生来、優れた工芸品を生む能力があると指摘した最初の外国人であり、その能力が失われつつあることを「世界的損失」と表現した。
彼はやがて植民地下にあった朝鮮民族の将来の再生を願って、あらゆる日常生活の工芸品を収集し、ついには朝鮮民族美術館まで設立(1924)したのだったが、妻子の犠牲も省みずこれを成し遂げたこの人物の理想と熱情には、深く心打たれるものがある。
柳は1914年秋、浅川伯教(のりたか)の訪問を受けたことが縁で朝鮮陶磁への本格的関心を有したとされている。浅川はロダンの彫刻を見に行ったのだが、なぜいきなり初対面の人に数点もの朝鮮陶磁を持参したのか、疑問が残る。
これは浅川の彫刻の師・新海(しんかい)竹太郎の介在が考えられる。柳が関係していた『白樺』のロダン特集号(1910年11月号)に、新海と柳が共に小論を寄稿するという顔見知りの間柄であり、新海はこの時すでに柳が朝鮮白磁を買う(1909)など柳の朝鮮陶磁への関心を知っており、このことを入門してきた浅川に伝えたためと推測される。
柳はまた、実践の思想家、行動する哲学者として、「発言の自由のない朝鮮人に代って」行動したことでも知られる。1919年5月の「朝鮮人を想ふ」発表以来、朝鮮の自由と独立を一貫して主張し、時の日本当局の植民地・同化政策を公然かつ大胆に批判し続けた行動の数々は、今さら多言を要しない。『朝鮮とその芸術』序文(1922)は実践家としての柳を象徴するもので、その一文は今なお格調高く力強い。
柳のこの行動力は叔父の嘉納(かのう)治五郎(講道館柔道で有名)の影響と共に、カントの認識論(いわゆる三批判書)によるものであろう。柳は結婚前、妻となる中島兼子に「カントの認識論に心おどらせて」おり、深い感銘を得たことを告白している。
柳の東洋とりわけ朝鮮との平和を重視する思想の淵源が奈辺にあるかも謎のままである。筆者はこの点、柳家や嘉納家との間にある勝海舟(1823~1899)との歴史的な人間関係を看過出来ない。嘉納治郎作(柳の母方の祖父)と海舟とはペリー来航直後の1855年からの古い関係があり、海舟は物的援助を受けている。柳の父・楢悦(ならよし)と海舟とは長崎海軍伝習所以来の師弟で、明治新政府でもその関係は続いた。柳の母・勝子の名は海舟の名に因(ちな)んでいるが、その弟の嘉納治五郎も海舟に親しく指導を受けている。
治五郎の妻は須磨(すま)子だが、その父は竹添(たけぞえ)進一郎で、朝鮮の甲申政変(1884)の時の日本国公使であり、海舟との関係はやはり親密である。
この甲申政変に金玉均、朴泳孝らと共に参加しているのが尹致昊(ユンチホ)(1864~1945)で柳がこの尹致昊に対面(1920)しているところに近現代史上の重要な意味がある。
柳には海舟の東洋和平の思想が多分に反映されていると考えている。