約100人の会員を有し、年1回講演会を行っている「昭栄・日本橋倶楽部」(会長・横山昭弁護士)が2月、朝鮮通信使をテーマに講演会を開いた。会に参加した藤井徳子さんの報告を紹介する。
ちょっと珍しい会と思われる「昭栄・日本橋倶楽部」を紹介してみたい。会員は約100名で元東京家裁裁判所調停協会々長の横山昭弁護士にお世話になったり、会社の顧問をして頂いている方々が、8年前に発足させた。
先生の人柄に触れ、年々会員も増えてきている。横の繋がりをもち、会員同士が仕事にプラスになればとの横山先生の希望であり、会員も親睦を深めていっている。法律の世話にならない会員も居たりで、これは喜ばしいことである。総会と講演会を組み2月に開催される。
2月の総会と6月の1泊旅行は会員同士の友好を密にし、情報交換の場となっているのも嬉しい。
昨年までの講演を振り返ると、韓国の歴史に造詣も深く理解のある横山先生の第1回は、やさしい法律の話。少年友の会顧問の日野原昌弁護士は少年犯罪による統計と実態など話された。
さて今回は2月6日、作家、田井友季子女史の登場である。演題は日韓の懸け橋とした朝鮮通信使と雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう)。
著書に『江戸の女百花譜』『折々のグルメのうた』他多数を書いておられるが、女史の『対馬物語』は学校推薦図書にもなった著書より、雨森芳洲を浮かび上がらせ、儒教者、新井白石や木下順庵にも触れ、現在の日韓にまで話しは及び、日本人の過去を詫びる姿に会場は静まったまま、身近に日韓を考えるきっかけになったことと思いたい。
「文をもって武にむくいた」その精神を新井白石が書き残した言葉は、生きている言葉だと思える。
講演の中で「頭でやるか心でやるか」のこの言葉は、今日の講演の大切な「キーワード」になったのではないだろうか。
田井女史は御歳80歳になられるが、常に日本と周囲を見、広い心で世界中をも見ているお人でもある。
私は度々田井宅を訪問し、多くを学ばせて頂いている。人口に膾炙された人物を書くのではなく、地位も名誉も捨て自分らしく生きた人物にスポットを当てる。
ご存知「八百屋お七」の話は女史の特異さの閃きがある。
「十四、五歳でままごと遊びはないでしょ。結婚している年齢なのに・・お医者さんごっこで妊娠して自律神経が狂って、それで火をつけたのよ」
という塩梅になり、この発想もなるほどと納得のいく時代背景でおもしろい。
物の見方、考え方は人それぞれだけれど、思考のアンテナを張り巡らせていたい。
女史の言われる「観考推洞」は観察考察推察洞察であり、念仏のように「かんこうすいどう」と常に唱えて歩いている。
今日の講演は儒教の精神を説き、聴いていて頷くことしばしであった。
人間には民族も国境にも差別はなく、生きて平和をつくっていくという大きな意義をもつ講演であったと思える。絵に描いた餅ではなく、一人一人が心のある接し方で隣人と手をつなぎ、大きな輪を作り、歩いて行きたいとみんな思っているにちがいない。
儒教の精神を忘れず、日本も世界も、混迷のまっ只中にいる現実を見ていかなくてはならない。
昭栄・日本橋倶楽部には在日の済州島出身者が3名出席し、田井女史の話に感動し、祖国の思い出など懇親会で話は盛り上がり、観光地などアピールしたりと、いつも以上に話しに花が咲いた。
東洋のハワイといわれる済州島は「石と女と風」の多いところで泥棒の居ない島といわれてきた時代もあったが、今日では犯罪も多くなったという。悲しい事である。
こんな話しの最中に、来年の旅行は済州島だ、の声がかかり、ほぼ決定の様子になってきて、2泊では短い、いや1週間位いいだろうとか、とに角、ここに友好親善ができ上った事に横山先生もご満悦である。
「人はみな平等である」をモットーとする横山先生を筆頭に、会員も交流をもち、日韓の親善となることを望む先生の会員であることを誇りをもっている。
田井友季子女史の雨森芳洲の心をしっかりと胸に刻み、6月の山梨への旅行での再会を約し閉会した。
ふじい・のりこ 1942年東京都出身。1992年、第5回短歌現代歌人賞次席。1994年、短歌新聞社年刊短歌賞受賞、第15回全日本短歌大会選者賞受賞。日本歌人クラブ会員。著者に歌集『無窮花植ゑむ』などがある。