崇城大学(熊本市)の松本寿三朗教授をはじめとする研究チームでは、「地方における日韓交流の基礎研究-熊本県での交流史料・資料・伝承」をテーマに調査研究を行っている。松本教授に文章を寄せてもらった。
熊本における韓国との交流を示す資料は次のようなものに代表される。
古代史では、百済との関係を示すものが多い。その一つは、5世紀末の玉名郡江田船山古墳出土品である。明治6年(1873)発掘されたこの古墳は鏡・玉・太刀・金銅製の冠と沓など多くの副葬品をともなっており、これらは一括して国宝に指定されている(東京国立博物館所蔵)。
特に太刀には菊花文・ペガサス・水鳥の模様のほかに、「治天下獲□□□歯大王」にはじまる75文字の銘文が記され、反正天皇に比定されていたが、近年埼玉県行田市の稲荷山古墳出土鉄剣銘文と対比した結果「ワカタケル大王」(雄略天皇)と読めることがわかった。
副葬品の中の金銅製の冠と沓は、全羅南道羅州市新村里古墳出土のものと瓜二つであり、百済との濃厚な関係が指摘されている。
百済では6世紀敏達天皇(572~585)のころ、百済に仕えて高官に抜てきされていた達率日羅は、火の国芦北国造阿利斯登の子で、「日本書紀」によれば、任那経営の方策を問われ、その献策が百済に対する裏切りととられて同伴した百済人に暗殺された悲劇の英傑とされる。近世の記録では墓は八代郡坂本村百済来にあるというが、未詳。
663年百済と倭の連合軍が唐・新羅の連合軍に大敗した白村江の戦いの後、百済の王族は倭に逃れたが、追撃に備えて大野城・基肄城と同じころに築かれたのが鞠智城である。八角形の建物や正倉院風の構造をもつ倉など多くの建物群、延長11㌔に及ぶ土塁の要所に三ケ所門がある大規模な朝鮮式の山城であった。今年国史跡に指定された。
15世紀菊池氏は朝鮮貿易に際して対馬宗氏の証明を必要としないほど優遇されていたし、一族の高瀬氏も朝鮮貿易に力を注いでいた。この点についてはもう少し資料を集めて検討する必要がある。
日韓文化交流に著しい展開が見られたのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍した諸大名が、韓国の技術者を連れてきたことによる。焼き物では、寛永9年(1632)細川氏の肥後転封にしたがって入国した朝鮮の陶工尊楷(のちの上野喜蔵)によって八代焼が始められた。藩主細川氏の御用窯で茶器が多かった。器の表面に白土で草花や動物の文様を象徴する精巧な手法が特色を成す。
肥後北部の製紙業は、加藤清正が連れてきた道慶・慶春に始まる。道慶は玉名郡木葉村に、慶春は山鹿郡芋生村に、もう一群は玉名郡日平村で杉原紙の御用を勤めた。
正保2年(1645)の「御扶持方御切米帳」の諸職人の項に玉名郡紙すき五人が二人扶持三石を給されている。城北には灯籠踊りで有名な山鹿灯籠があるが、原料はこの地でできた和紙が用いられていた。近年は洋紙に押されて和紙の生産はほとんどおこなわれていない。
文禄2年(1593)余大男は13歳のとき慶尚道河東近くで加藤清正に捕らえられ日本に連れてこられたが、京都六条本国寺日乾のもとに送られて出家し、諸山を歴訪遊学し、慶長16年清正の死後肥後本妙寺に帰山して本妙寺の三世に就任、日遥上人と呼ばれる。
清正追善のため法華経を書写したのが、本妙寺の大祭頓写会のもととなった。本妙寺の地位を磐石のものとし高麗上人・高麗遥師と崇められている。隠退の後万治2年(1659)故国朝鮮に向かって旅立ったという。
肥後藩の藩校時習館の第4代教授高本慶蔵の先祖李宗閑も、文禄役に連れてこられた人であった。嫡子慶宅は二百石の医師として召し抱えられ、高麗と日本の2国から高本姓を名乗った。5代慶蔵は儒者に取り立てられ、明和8年(1771)時習館訓導となり、天明8年(1788)には教授となり、時習館に国学を導入した。
近年の朝鮮史にはよきにつけ、あしきにつけ、熊本人が登場する。相当の資料があるのだが、研究は進んでいない。この機会にきちんと資料収集したいと考えている。