韓国の文学史に目覚ましい足跡を残した詩人、朴龍チョルの生誕100周年を記念した講演と詩の朗読の夕べが、このほど東京の韓国文化院で行われた。講演要旨を紹介する。
◇英米現代詩と朴龍チョル 金宗吉(韓国芸術院副会長)◇
韓国ではその南西部に位置する全羅道を湖南(ホナム)と称する。朴龍チョルは全羅南道光州市近郊の農村で、裕福な両班(ヤンパン)地主の三男として生まれた。彼は小柄で病弱な体質であったが、秀才で真面目かつ勤勉であった。
34才で夭折したにもかかわらず、彼が詩作、評論執筆、翻訳、演劇運動、文芸雑誌の編集と刊行、特に詩集の出版という、多方面にわたる活動で自身を燃やし尽くしたのはかかる彼の生得的な資質によるものと思われる。彼の翻訳が、中学卒業後、東京外国語学校ドイツ語部で1学期間、延禧専門学校分科で1年間在席した者の語学力とは信じられない位、正確かつ流麗であるからである。
朴龍チョルが訳した英語詩人の数は、彼の全集に出てくる詩人達すべてを計算にいれた場合、80人近い。この事実だけでも、彼がどれほど広く英語詩を読み、また意欲的にそれを翻訳したかがうかがえる。しかもそれら詩人たちは極少数の例外をのぞいては皆、19世紀後半および20世紀の初頭に活動した詩人達である。彼がそれらの作品を主に翻訳紹介したのは、もっぱら彼自身の詩作と韓国の現代化に資せんがためであった。
朴龍チョルの英語詩翻訳を一読したばあい、まず目につくのは彼が女流詩人の作品を多く訳していることである。これは女流詩人たちの詩が、一般的により記しやすいからであろうが、それよりもむしろ、彼女たちの詩がより叙情的で、訳者の気にいったからであったとおもわれる。
朴龍チョルの英米詩の翻訳は、その量に於いて、同一人のそれとしては当時のみならず20世紀全般においても韓国では最大のもので、質的にも当時としては最も高い水準を見せている。
彼はまた韓国現代詩における優れた純粋抒情詩人である、金永郎(1903~1950)と鄭芝溶の詩集を、自営の詩文学社から出版している。彼はこれらの詩人達と、「詩文学派」を形成し、同人誌「詩文学」を編集、刊行するなど、家産をつぶしながら、ひたすら韓国の詩文学のために、献身的に尽力しつづけたのであった。
彼の年譜によると、彼が詩作と西洋詩の翻訳に専念し始めたのが、1929年、かれが25歳の時で、彼が逝去する1938年までにはわずか9年をこすだけであった。しかしかれは病弱な体にむち打ちつつ、多方面にわたる活動をつづけながらも、多くの西洋詩を、見事に翻訳したのである。韓国の現代詩文学史に特別な位置を占めるべき、一人の巨人であった。
◇朴龍チョル詩の現代性 石原武(詩人)◇
今、日本で詩を書いている人たちの中で(研究者も含めて)、朴龍チョルという詩人の存在を知っていた人は皆無に等しかったのではないか。私も李承淳訳『朴龍チョル詩選』によって初めて知り、あの悪しき時代に、暗夜の星の如き純粋な詩の煌きを残して消えた不運な個性の存在に、少なからず衝撃を受けた。
朴龍チョルが生まれた(植民地という)悪夢の時代、文学史的には与謝野晶子の「君死にたまふことなれ」という反戦詩が書かれている。そして日本現代詩の抒情の源流といわれる同人雑誌「四季」の創始者、堀辰雄がその年に生まれている。
朴龍チョルは1920年代末期の東京を経験、東京外国語学校ドイツ語学科に入学するも、関東大震災のため帰国、延嬉専門学校に編入。しかし結核のため故郷素村里で翻訳・創作に打ち込んだという。かくして1930年、金永郎、鄭芝溶らと「詩文学」を創刊する。この「詩文学」が韓国現代詩の水源というべきものという評価を耳にするとき、堀辰雄の「四季」のことを思わずにいられない。堀辰雄も結核のため信州の蟄居、翻訳・創作に没頭し、多くの詩人に影響を与えた。
朴龍チョルや鄭芝溶が「詩文学」で才能を開花した1930年代は、日本では「詩と詩論」などによるモダニズムの詩運動の時代だ。迫り来るファシズムの足音を聞きながら、一方ではダダやシュールレアリスムの新思潮を受容しながら、他方では、階級闘争としてのプロレタリア文学が勃興した。堀辰雄の「四季」は、後継の三好達治などやや保守的な傾向を見せながらも、純粋な抒情詩の命脈を保ち続けた。
ここに朴龍チョルの「二羽の鳥」という一篇がある。冒頭の部分を引いてみたい。
妹よお前の心臓は乾涸びた所でもがく魚のようにどきどきするのか
乾いた枯葉のようにただ粉々に砕けるのか
油の切れた空の糸車のように空回りするか
おお――いたましい
それなのにおまえは血の気のない僕の顔色と
胸から吐き出す椿のような僕の血を憂えるばかり
ああ互いの手が触れると白い蝋燭のように冷ややかだ
*「朴龍チョル詩選」は花神社より発売。03・3291・6569。