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2005/08/12

<韓国文化> 韓国前衛美術の歩みをたどる

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    金基昶 「収穫(大麦の脱穀)」

 アジア11カ国約120点の作品を紹介する「アジアのキュビズム-境界なき対話」が、東京・竹橋の東京国立近代美術館で、10月2日まで開催中だ。韓国からは10人、14点出品。韓国でキュビズムがどう受け入れられてきたか、金英那・ソウル大学美術館館長の報告「韓国におけるキュビズム」を紹介する。

 韓国における一般的な近代化の過程とまさに同じように、西洋美術のさまざまな様式や動向は年代順に紹介されたのではなく、あらゆるものが同時期に、一挙に紹介された。

 キュビスムに関する重要な紹介がなされたのは1930年代のことである。印象派やフォーヴィスムはほとんど抵抗なく受け入れられたのに対して、キュビスムに対する批判はかなり強いものだった。人体を論理的に分析し、それを切子面として描くキュビスムは、芸術とは本来、詩的感情を表現するための道具であると認識していた当時の韓国人作家たちには理解し難いものであった。

 韓国においてキュビスムがもっとも影響力を持ったのは1950年代である。キュビスムに熱中した者の多くは、日本による占領時代から活動を続けてきた高名な作家たちであった。当時、急進的美術においては主たる二つの流れがあり、ひとつは色彩を主観的な手法で用いるフォーヴィスム的傾向、もうひとつがキュビスムである。これらの美術運動は西欧においては既に終焉を迎えていたが、依然としてリアリズムが支配的であった国展(大韓民国美術展覧会)に展示されていた類の作品とは対照的に、きわめて新鮮なものに思われた。

 主題に対していえば、ピカソやブラックが絵画的空間を制限し、感情を介さずに主題に接近したのに対して、韓国の画家たちは主題をはっきりと際立たせる傾向があった。韓国のキュビスムに見られるもうひとつの興味深い特徴は、西欧のキュビスムの画家がキュビスム的な形態を、近代性を表すものとして認識していたのに対し、韓国の画家たちが、牛や女性、家族といった前近代社会を象徴する主題に執着していた点である。

 ここで重要なことは、1950年代の多くの韓国人作家が、その作品にキュビスムの影響が見られる一方で、純粋抽象あるいは幾何学的抽象にも関心を持っていたことである。朝鮮戦争のような徹底的な社会変革を体験したばかりの美術の世界においてはむしろ意外に思われるかもしれない。だが、韓国の美術界はまさに政治的、イデオロギー的な混乱を体験したからこそ、作家は純粋であるべきだという思想が広まったとも考えられる。

 しかしながら、キュビスムは韓国においてはほんの短い期間しか存在しえなかった。1950年代半ば以降は、アメリカの抽象表現主義とヨーロッパのアンフォルメルが紹介され、日本による占領と朝鮮戦争が終わった後に大学を卒業した若い世代の作家たちは、これら戦後の新たな思潮に傾倒していった。論理的な幾何学抽象に比べ、自由な表現様式と方法論を持つこの新たな芸術は、作家たちが戦争によって受けた心理的なトラウマや不安感にうまく対処することを可能にすると考えられた。

 芸術におけるこの趨勢は、1960年4月19日の学生暴動へと突入する若者文化がすでに始まっていたことを示唆している。こうした点から見ると、韓国におけるキュビスムは、一方では具象芸術から非具象芸術への橋渡しの役割を果たし、また一方では保守的世代から新しい世代への交代を告げるものであった。(「アジアのキュビスム」カタログより抜粋)


  キュビスム 20世紀初頭にピカソやブラックらによって創始されたキュビズムは、パリから周辺のヨーロッパ諸国へ、さらに東欧・ロシア、米国、アジアの諸地域へと広がっていった。科学者のように対象を鋭利な線によって分析し、また機械工のように断片化され記号化された事物から空間を再構成するキュビズムは、単なる新しい絵画表現というより、近代的な物の見方や考え方を端的に示す雛型として伝わっていった。