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2005/02/18

<韓国文化>2つの祖国生きた足跡描く

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    1950年、博士渡韓直前の家族写真。中央の眼鏡が禹長春博士、左端が妻の小春

 日本に亡命した韓国人の父と日本人の母を持ち、戦後韓国に渡って、韓国農業の発展に貢献した世界的な農学者、禹長春博士の生涯を舞台化した韓日合作演劇「祖国に種を播く」が、今月下旬から来月にかけて済州道、釜山、ソウル公演が行われる。5月には東京公演も予定されている。2つの祖国を生きた禹博士の足跡を通して、韓日関係を考える企画だ。
 
 原作は、禹長春博士(写真・中央の眼鏡が兎博士、左端が妻の小春)の足跡を扱った角田房子さんの小説「わが祖国禹博士の運命の種」だ。

 韓国の農業を今日の隆盛に導いたのは、禹長春博士の功績といわれている。世界的な植物学者で、名論文「種の合成」で世界の農業を変えたといわれる禹博士が、韓国へ帰国したのは、1950年のことだった。

 帰国といっても、禹長春が生まれたのは、韓半島ではない。彼は、閔妃暗殺事件のとき、日本軍守備隊とともに王宮内に入った朝鮮訓練隊第二大隊の隊長・禹範善が、日本亡命後、日本人妻酒井ナカとの間にもうけた子供で、1898年(明治31年)の誕生の時は一家は東京本郷にいた。

 その後、広島の呉に移った1903年(明治36年)、父禹範善は亡命者の高永根に殺害され、長春は弟とともに母の手で育てられる。呉中学を卒業した長春は、東京帝国大学農科大学実科に進み、農林省西ヶ原農事試験場へ就職し、後に農事試験場鴻巣試験地に転じた。

 長春はここで、朝顔の遺伝について研究し、菜種の品種改良に取り組み、世界的に高い評価を受ける博士論文「種の合成」を完成させる。しかし、農学者になっても、彼の身分は技手のままだった。ようやく彼が技師に昇進したのは、農林省をやめる一日前だった。

 農林省をやめてからは、京都のタキイ種苗株式会社に農場長として迎えられて、ここでも彼は数々の業績を残す。

 日本の敗戦とともに、博士をとりまく環境は一変する。植民地時代に荒廃した農村を再建し、日本に依存していた蔬菜の種子の問題を解決するために、韓国では、「禹長春博士還国推進委員会」が組織され、博士の帰国を要請する。長春は悩んだ末に、この要請を受け入れた。

 家族を京都に残したまま韓国におもむいた長春は、東莱につくられた韓国農業科学研究所、後の中央園芸技術院の所長に就任した。ここで博士は、大根・白菜の種子を採取し、済州島を蜜柑産地として育て上げるなど、韓国農業の近代化のためにめざましい活躍をして、1959年8月、祖国の地でその生涯を閉じた。

 日本に留学経験のある演出家の金淳栄さんが、脚本・演出を担当する。釜山には現在、禹長春記念館が設置されている。

◇演出家・金淳栄◇

 韓国では学校の教科書で禹長春博士について習うが、農業の発展に貢献したことぐらいしか知られていない。詳しい生い立ちについては、ほとんどの韓国人が知らないのではないだろうか。私も禹博士が日本生まれで、日本語しか話せなかったことは知らなかった。

 父が韓国人、母が日本人の彼は、アイデンティティーをどこに求めたのだろうか。禹博士はなぜ日本での科学者の道を捨てて妻子を置いて52歳にして韓国に渡ったのか。不思議に思う人もいるし、韓国人の血が流れているのだから、祖国のために帰ったのは当然と感じた人もいるだろう。

 私は祖国という側面よりも、科学者としての使命感が強かったと思っている。だから民族的アイデンティティーよりも、科学者としての生き方を強調したいと思っている。

 禹博士は、「播いた種が何を残すかが大切だ」とよく言っていたらしい。その精神を伝えたい。そして韓日関係が困難だった時代に、その狭間で精一杯生きた人がいたと紹介することで、未来の韓日関係はどうあるべきか暗示したい。