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2005/01/28

<韓国文化>韓国的な情緒を表現

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              「愛馬少女の朝」(30号)

 韓国画壇の重鎮、朴昌敦画伯の個展が、東京・銀座のギャラリー美術世界で開催中だ。朴さんは韓国的な情緒を反映した絵で知られており、日本では初個展となる。朴さんへのインタビューと美術評論家の申恒燮さんの推せん文を紹介する。

◇朴昌敦(画家)◇

 画家にとって大切なのは、色を感じるということだ。色を感じるというのは、どういうことか。ある時、大学の授業で黒板に大きく「顔」という字を書いた。「顔とは何か?」と質問をすれば、「体の一番上に付いているものです」など多くの答えが出る。しかし、私が考えるに顔というのは、その人の全てが凝縮されている部分だ。大部分の人は、顔を見て相手を“感じる”のではないか。その顔の中で最も重要な部分は目だ。

 「百聞は一見にしかず」というのは、どういうことか。百回聞くよりも一目見ることの方が決定的で重要だということだ。「見る」というのは、「目で見なければならない行為」だ。

 それでは、美術とは一体何か。何かを表現する時に手が思うように動かないと表現しきれない。ところで手は、何によって動くのか。
 心が辛く苦しい時には、いくら美しい花が目の前にあっても、美しいとは感じられない。ある詩人の母親が病に倒れ、父親が交通事故にあったとしたら、その詩人が花を見て「おお美しい花よ!私を生かしてくれる花よ!」という風に詩が描けるだろうか。間違いなく無理だ。

 美しさを発見して、それを感じるのは心の作用だ。“何かを見た”という意味は、“色を感じた”ということである。中には目が見えない人もいるが、そういう人たちでも物に触ってみるという表現が可能だ。“見る”ということは、“色を感じる”ことだと言える。

 目を開いている間は、ずっと色を感じ続けているので色の重要性を自覚できずにいる。鼻や口を塞いで初めて空気の有り難さが分かるのであって、普段はその有り難さに気付かないのと同じことだ。感じられないというのは、見ることができないということだが、その色というのが私たちの日常生活においてそれほど重要なのだ。その色を一生涯勉強するのが美術に携わる人々である。

◇申恒燮(美術評論家)◇

 朴昌敦さんは韓国的な情緒にどっぷりつかり、制作活動をしてきた作家である。それは世界統合を指向するインターネット時代に逆行するかのように見えるかもしれない。もちろん彼は古稀を過ぎていて、インターネットとは関係のない世代と言える。インターネットを知らなくても生きていく上で何の不便も感じないという意味だ。世界化が進みながらも、むしろ文化と芸術は民族主義的な様式や個別的な形式が脚光を浴びることになるだろう。政治、経済、軍事、社会などの分野では世界を一元化できるかもしれないが、文化と芸術は逆に民族的で個別的なものが脚光を浴びるだろう。
 
 そのような時、朴昌敦のような郷土的な色彩の濃い作家の制作が、鮮明に浮き彫りにされるだろう。彼の絵は時代に逆流するのろまの美学であるといえる。制作過程で多くの時間を要するだけでなく、絵も牧歌的かつ幻想的で夢幻的なイメージだけが画面を埋めている感じだからだ。
 
 そこには東洋的な精神性が息づいている。私たちの心を虜にする神秘的な気韻が漂う。韓国人の情緒的な根を土台とした精神の根本が込められたものだ。彼の絵には朝鮮白磁、土器そして韓服を着た少女と馬と牛の背中に乗って笛を吹く少年など、韓国の昔の絵でよく見られる素材が登場する。1940~50年代、韓国油彩画の一つの様式的な特徴として認識されている郷土的題材こそが、韓国的な絵に最も近づいたものだといえる。
 
 彼の制作もまたそのような伝統の脈絡から理解できる。世界化という現実の中で私たちの存在性を失わないためにも、韓国的情緒のぎっしり詰まった郷土的な題材の重要性をいくら強調してもし過ぎることはない。


  パク・チャンドン  1928年韓国黄海道(現北朝鮮)生まれ。黄海道海州芸術学校美術科卒業。大田、牧園大学校美術大学名誉教授。大韓民国美術展覧会(国展)推薦作家・招待作家・審査委員歴任。韓国美術協会元老会員。