日本との江華条約により鎖国の扉をこじ開けられた19世紀末の朝鮮、影響力の強化を狙う列強の思惑を逆手にとって、イギリスと接触し大艦隊の派遣を求める一方、相次いで使節団や密使を渡日させ、日本を舞台に一挙に開国交渉をやってのけようという計画があった。もしも実現していれば、東アジアの歴史が大きく変わっていたかも知れないプランを、国王と金玉均ら開化派リーダーたちが実行しようとしていたことが、著名な英国外交官の伝記で明らかになった。二松学舎大学の田村紀之教授に紹介していただいた。
国王・高宗と開化派がイギリスに大艦隊の派遣を要請していた――。李朝末期の重大事件のひとつである甲甲政変(1884年)の序幕に、こんなエピソードが隠されていたことを示唆する資料があった。さきごろ翻訳が出版された、I・C・ラックストン著『アーネスト・サトウの生涯』(雄松堂)がそれ。サトウの日記と手紙を中心に構成した伝記である。
開化僧・李東仁が、イギリス公使館のアーネスト・サトウ(通訳、のちに書記官)と頻繁に面会し、彼に朝鮮語を教えていた。そればかりか、正規の英国艦隊の派遣を要請するとともに、朝鮮から日本に使節を派遣して、諸外国との開国交渉をやらせるという計画まで打ち明けていたのだ。
同書によると、1880年の5月12日、朝野と名乗る朝鮮人がサトウを訪れてきた。本名は李東仁。彼はヨーロッパの文物について、「何であれ人目を驚かすような物の写真」が欲しいといい、できれば英国を訪問したいという希望を述べた。2度目の訪問は5月15日。このとき李は、1878年にサトウが済州島に赴いたおりの書簡の写しをみて、サトウの名を知ったと明かす。この書簡は、国法に触れるからと当時の済州島知事(観察使?)に受け取りを拒否されたものである。サトウは李を横浜に誘い、ケズィック一家を紹介している。その昔、伊藤博文や井上馨の英国留学を手助けしたのが、この一家のウイリアムだった。
李東仁は、金玉均より1歳年長というから、1850年頃の生まれだろう。金玉均らの先遺隊役を引き受けた李は、陸路釜山に赴き、そこに数カ月留まったあと、日本に渡った。当時、釜山には東本願寺別院があり、奥村円心と妹の五百子(いおこ)、それに朝鮮語を学ぶ日本人学生たちが来ていた。李は円心の紹介状をもって京都の東本願寺に行き、渥美契縁に会う。さらに渥美の紹介で、東京・三田の福沢諭吉邸に寄寓していた本願寺僧・寺田福寿を知る。のちの金玉均と福沢諭吉の親密な関係は、こうして出来上がった。李の渡日は、79年秋。
これまで、開化派の目的は、あくまでも日本事情の視察と日本を通じての西洋文明の吸収にあり、李の派遣はその下準備のためだとされてきた。だが、サトウとの出会いの最初の日に、李は英国訪問の可否を打診している。
李がサトウの書簡の写しに触れている点に注目しておきたい。いうまでもなく、これに接することができたのは、きわめて高位の人間に限られる。国王の意をうけての、イギリスとのコネクション作りが、李東仁の使命のひとつだった可能性は否定できない。ともあれサトウは、8月11日には金弘集一行(第2回修信使)の到着について記している。7月頃から、サトウは朝鮮の小説を教材に、李から朝鮮語を学んでいた。
9月4日、李東仁はサトウに別れを告げにやってくる。そのとき李は、「年末までに戻ってくる」と言い残した。果たして、それから約3カ月後、李東仁がふたたびサトウの前に姿を現す。当時、客船の定期便はなく、チャーター便を別にすれば、ひと月に1度程度の商船便を利用するほかなかった。金弘集一行は9月8日に東京を発ち、横浜から郵船にて馬関(下関)経由で帰国している。李東仁はサトウに別れを告げた4日後に、金弘集らと同行していったん帰国し、そして再度来日していたのだ。
金弘集は、駐日清国公使館の黄遵憲の書『朝鮮策略』を持ち帰った。これは、ロシアに対抗するための親中・結日・連美(米)を説く一種の太平洋同盟策をとなえたもので、朝鮮国内に波紋を呼び起こす。金玉均はこれを愛読したというが、李東仁からの対英工作についての報告にも、さぞかし喜んだことだろう。
たむら・としゆき 1941年、京都生まれ。一橋大学卒。東京都立大学経済学部長などをへて二松学舎大学教授。20年前に韓日の経済・経営学者を組織し、日韓経済経営会議を発足。2003年、東アジア経済経営学会(日韓経済経営会議を改組)会長。