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2006/03/10

<韓国文化>戸田志香の♪♪音楽通信

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    友情半世紀の永遠のテノール安亨一(左)と歌の旅人呉鉉明(右)05年12月27日、ソウル・世宗文化会館

 「私は若い時、乞食のような生活をしていました。でもその時も歌を捨てませんでした。声楽家になる気持も捨てませんでした」

 永遠のテノール安亨一(アン・ヒョンギル)。

 1926年生まれの安は昨年末、ソウルの世宗文化会館で開かれたソリストアンサンブル定期演奏会のステージで、傘寿を祝う歌を贈られた。

 歌を愛した君/愛を歌った君/人生を愛し 人生を歌った/その生涯は 美しく 羨ましい/私たちの愛を 欽慕を/君よ 喜んで受けよ

 安は平安北道・定州で生まれた。裕福な農家で育った安は中学校の音楽教師に勧められ、声楽とピアノを習い始めた。両親は音楽の道に進むことに反対したが、声楽家を志す安は単身、ソウルに出た。二十歳だった。

 「北から来て一年目の冬。お金がなく、寝るのはバラック小屋。布団なんてないから、朝起きると鼻の下がバリバリと凍っててね」

 安の声と歌に光が射したのは、アメリカ軍の大領宅で住み込みのハウスボーイをしていた時だった。仕事をしながら歌っていた安の声を聞いた出勤前の大領が、「その声なら毎週土曜日、将校クラブで歌ってみてはどうか。そして音大に行ったらいい」と歌う仕事を世話してくれた。

 ソウル大に受かり、安が音楽の道を歩き出した時、主人である将校がアメリカ転属となった。アメリカで勉強をさせるから一緒に行こうと誘われたが、安は断った。ソウル大を中途で辞める決心がつかなかったからだ。

 「あの時アメリカに行っていたら、もっといいテノールになっていただろうにと、今になっても後悔してるんです」

 「六・二五(韓国戦争)の時は北の人民軍に見つからないように、ソウルでじっと隠れていました。中学の時、歌のレッスンをしてくれた先生が北のコーラスの指揮者としてソウルに来て、私のことを捜していると聞きましたが、出てはいきませんでした」

 人民軍はソウルを離れる時、音楽、舞踊、演劇、合唱団、オーケストラ、サッカー選手、映画俳優など300人を強制的に北へ連れていった。

 そうした状況からせめて音楽家を守ろうと、海軍提督夫人ソン・メリーはソウルにいる音楽家を仁川港から輸送船で釜山に送った。音楽家120名は海軍政訓音楽隊となり、連合軍の慰問など年に280回くらいの演奏をした。釜山に避難していたソウル大で勉強を続けていた安もこの音楽隊に入った。

 「ここに入らず軍隊に行っていたら間違いなく死んでいましたね」

 釜山からソウルに戻った安は、ソウル大卒業生中心のソウルオペラ団「リゴレット」公演でマントヴァ侯爵を歌った。31歳のオペラデビューだ。その後「トスカ」「ルチア」「椿姫」「アイーダ」「春香伝」「沈晴伝」など50余の作品に出演している。また国立オペラ団創団メンバーの安は、4代目の団長を歴任している。

 女子高の教師から漢陽音大、ソウル音大と移った安は47歳でイタリアへ留学した。「お前の声は商品だ」と言われた安は、あるオーディションを受けた。マネージャーの前で3曲歌ったが「イタリア語が十分に出来ないからオペラは無理かなあ」。ローマへ来て9日目のことだった。

 「このことはね、実は誰にも話したことがないんです」。

 「私は悲しくても嬉しくてもどんな時でもひとりで歌うんです、昔、歌った歌を。すると人生の幸せな瞬間がやってくる。トシをとって歌える喜びがあります。若い時よりもっともっといい歌を歌いたい」

 安の声は若い。40代の声だ。加齢と共に声は老いる? とんでもない。それをこの安が証明している。屈託のない純粋な心を失わない安にとって故郷、平安北道・定州は行くことのできない遠い空の下だ。

 「65年前の両親しか知りません。妹が生きていることは最近わかりました」

 「歌に生き、歌に死にたい」永遠のテノール安亨一。伸びやかな安の声が遮られることなく故郷まで響く日が近いことを願わずにはいられない。


  とだ・ゆきこ 国立音楽大学声楽科卒業。元二期会合唱団団員。84年度韓国政府招へい留学生として漢陽音楽大学で韓国歌曲を研究。「町の音楽好きネットワーク」ディレクター。著書に『わたしは歌の旅人 ノレナグネ』(梨の木舎) 。