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2006/02/17

<韓国文化>甲状腺がんと闘うオペラ歌手

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    ペ・チェチョル 1969年生まれ。イタリアのヴェルディ音楽院を修了後、直ちにヨーロッパ各地の声楽コンクール優勝。世界的にも貴重な「リリコ・スピント」の声質を持つ。日本では、2003年「イル・トロヴァトーレ」でデビュー。2005年10月にドイツのザールブリュッケン歌劇場でヴェルディの「ドン・カルロ」に出演中に病に倒れ、現在舞台復帰をかけて療養生活にある。

 韓国出身のテノール歌手で、日本でも活躍しているペ・チェチョルさんが昨年10月、甲状腺がんにかかっていることが判明した。ペさんは日本の支援者の協力を得て、4月に日本でがん手術を行う。支援活動に取り組む輪嶋東太郎さん(音楽プロデューサー)に、報告を寄せてもらった。

 韓国が世界に誇るテノール歌手ペ・チェチョル。韓国はいまレベル、層の厚さともに世界でもトップクラスと言われるアジアのオペラ王国だが、その韓国オペラ界で「史上最も優れたテノール歌手」との呼び声の高い彼を、昨年突然の悲劇が襲った。10月ドイツで甲状腺がんに侵されていることが判明。甲状腺の全摘出手術を受けた際、声帯関係の神経の片方がすでにがん細胞の侵食を受けていたため、切断されてしまったのだ。

 声を仕事とする者にとっては、それは「致命的」なことであり、彼の歌にアジア人オペラ歌手の限りない可能性を見ていた私達は、その知らせに筆舌に尽くし難い悲しみに突き落とされた。

 しかし、この日本と深い縁と絆を持つテノール歌手に、まさに「運命の力」(ヴェルディのオペラの題名)と言える不思議な力が及び、その歌声をもう一度聴くことが出来るかもしれない、いや、必ずやその日が来るに違いないと感じさせる希望の光が差しつある。

 私たちが2003年9月、渋谷のオーチャードホールで上演したイタリア・オペラの名作「イル・トロバトーレ」で初めて日本に登場した彼は、この難役中の難役で耳を疑うほどの名唱を聞かせ、いきなり日本の聴衆に衝撃を与えた。その後、岸田今日子、冨士眞奈美、吉行和子の三人の女優がナビゲーターを務めながらオペラの魅力を伝える企画「女優三人が贈るおしゃべりコンサート“歌に生き、恋に生き”」などでも来日を重ね、歌う度に聴衆を熱狂させ続けてきた。“絶賛される”とは、あのような成功を言うのだろう。

 事実、50年以上熱狂的オペラ・ファンである冨士眞奈美さんは、「パバロッティやドミンゴよりもペさんの方が素晴らしい」と言い切り、また先の“トロバトーレ”で共演したイタリア・オペラ史上最大のメゾ・ソプラノ、フィオレンツァ・コッソットをして「デル・モナコ(“黄金のトランペット”と称えられた不世出の大テノール)はペさんのように歌っていたわ」と言わしめたほどだ。

 韓国人オペラ歌手の歌を日本の聴衆に届けることに専心してきた私も「彼の歌を聴いてオペラ・ファンにならない人はいない」と心底確信している。実際に彼のコンサートの後には必ず「今までオペラは嫌いだった」という人たちからでさえ「ペさんのお蔭でオペラ・ファンになってしまった」という沢山の声が寄せられた。

 そのような彼に降りかかった突然の試練。周知のとおり、人は左右二枚の膜からなる声帯が中央で寄り合い摩擦することで声を発するが、現在彼の右側の声帯は完全に麻痺し、会話の声もかすれ歌声にならない状態だ。

 しかし「甲状軟骨形成」という手術を受けることにより、僅かながらではあるものの、以前の声に戻る可能性があることがわかった。例え僅かであっても可能性が「ゼロでないということは、100㌫と同じ」であると信じ、「世界の宝」であるその声を取り戻して下さる先生を求めて私たちの「名医探し」が始まった。

 そして多くの偶然と不思議に導かれ、遂にその先生にたどり着いた。この手術を世界で初めて開発し、最も多くの症例を見てこられた京都大学名誉教授の一色信彦(いっしきのぶひこ)先生だ。

 2月9日、彼は現在居住するドイツから来日し、最初の診察を受けた。先生ご自身もオペラ・ファンであり、先にお送りしていた彼の歌う映像に大変感銘を受けられたことを知ったのも喜びであったが、診察で、声帯の状態だけでなくその止まっている位置、更に周辺組織も、このような状況としては極めて稀なほど状態が良いことがわかった時には、喜びを超え、何か「大きな意思」のようなものさえ感じた。

 歌に対する彼の思いと、5歳まで大阪に暮らしたという彼の父をはじめとする家族、そしてその復帰を心から願うファンや関係者の深い祈りが通じたのだと、思わずにはいられなかった。

 来る4月25日、彼は人生をかけて、京都で一色先生の執刀で手術を受ける。そして私達は、一般からの募金やカンパに加え、彼と多くの舞台を共にした前述の三人の女優さんにもご協力いただき、公演の模様を収めた記録用映像をDVDとして販売し、日本の保険が適用されない彼が手術を受けるための費用を支援する活動を始めている。

 これまで彼が日本で歌った演奏会の音源を利用したCDの制作も検討している。また4月22日に「歌に生き、恋に生きⅢ」を東京オペラシティで開幕するが、その収益の一部を日本での治療費に充てる。

 彼がその歌で私達に与えてくれた「喜びと感動」に対する恩返しとして、この支援の輪が少しでも大きくなるとともに、一人の演奏家を通して、日本と韓国の間にまた一つ友情の花が咲くことを、心から祈っている。


 ◆支援活動の連絡先は〒151-0071東京都渋谷区本町1-4-3-206ヴォイスファクトリー株式会社内、ペ・チェチョル支援活動係。℡03・5388・0041、FAX03・5388・0042。