金東虎・釜山映画祭事務局長がこのほど、第7回東京フィルメックスの審査員として来日、釜山映画祭の現況について講演した。共にシンポジウムに参加したプロデューサーのオ・ジョンワンさんの発言と合わせて要旨を紹介する。
釜山国際映画祭(PIFF)は96年にスタートした。10年間でここまで躍進するとは思わなかった。スタート当時は、釜山に拠点を置いていた私を含め3人の映画人が中心となった。
90年代に入って韓国映画発展の兆しがあり、国際的な映画祭開催の必要性を強く感じていた。95年から準備作業を始めたが、規模は小さくても良い映画祭を作りたいと考えた。釜山市から3億ウォン、協賛企業から18億ウォンを集めて第1回目を始めた。
釜山国際映画祭がこれだけ国際的に成長したのは、4つの理由があると思っている。
最初に、韓国で行われた国際的な映画祭は初めてだったということ。そして、韓国で紹介される機会の少なかったアジアの映画を多く紹介したことだ。アジア映画に接する機会を、韓国の映画人や観客が数多く持ち、第1回目は約18万人を動員した。
2番目には私たちが掲げた目標、プログラムがよかったことだ。アジアには東京国際映画祭や、香港の映画祭などがすでにあった。それらと差別化する必要を考え、アジアの新人監督発掘を目的にした。だから最初はコンペティション部門がなかった。
アジアの新人監督を発掘し、良い作品を紹介するために、3人の中心スタッフが苦労を重ねた。
その成功によって、第3回目からはアジアの映画監督を支援するプログラムを作り、映画への出資希望者と監督らが接する場を設定することができた。このプログラムは現在まで運営されている。
3番目にあげられるのが中心スタッフによる独自運営を行ってきたことだ。市の財政に頼りすぎると、その市が財政危機に陥ったとき映画祭の開催も危機に瀕する。日本の福岡、山形、夕張などの映画祭はその顕著な例だ。資金の大半を民間から受けてきたことで、財政的にも内容的にも独自性を保つことができた。
第4番目に市民、映画関係者、俳優などが全面的に協力してくれたことだ。この支援なくして映画祭は続かなかった。
今年は第11回目を開催したが、次の10年の1年目という位置づけをしている。
今後は海外へのマーケットを強化し、また優秀な監督を育てるための教育機関を充実させることにも力を入れたい。ドキュメンタリー映画のための基金なども必要。アジアの映画産業関係者が協力して、アジア映画の振興に力を尽くしていければと願っている。
キム・ドンホ 1937年韓国生まれ。ソウル大学校卒業。文化観光省(旧・文化情報省)、韓国映画振興協会代表などを歴任。現在は釜山国際映画祭ディレクター。
◆映画の多様性実感 プロデューサー オ・ジョンワン◆
日本でも公開されたカン・ジュギュ監督作品『銀杏のベッド』のプロデューサーとして、第1回から釜山映画祭に参加してきた。
韓国の映画人が一同に集まる機会はそれまでほとんどなかったが、釜山映画祭によって、映画人たちが集まる機会を持てた。当時、韓国では映画制作はまだ困難な状況だったが、その現場の苦労をともに語り合うことができた。
また、アジア各国の多様な作品を見て刺激を受ける場にもなった。
そして最初の映画祭で最も記憶に残っているのが、集まった観客の情熱的な姿だ。映画への情熱を語る観客を目の当たりにして、映画プロデューサーとしての自負心、責任感を強く感じるようになった。
その後独立して事務所を設立した。興行的には不安があっても、多様性ある作品を作るように努力してきた。その根底には釜山映画祭を通じて、映画の多様性の必要性を実感したことがある。これからも映画祭のために尽力したいと考えている。
オ・ジョンワン 1964年ソウル生まれ。99年に制作会社「BOM」を設立。主な作品は『反則王』『スキャンダル』『甘い人生』。