日本との江華条約により鎖国の扉をこじ開けられた19世紀末の朝鮮、影響力の強化を狙う列強の思惑を逆手にとって、イギリスと接触し大艦隊の派遣を求める一方、相次いで使節団や密使を渡日させ、日本を舞台に一挙に開国交渉をやってのけようという計画があった。もしも実現していれば、東アジアの歴史が大きく変わっていたかも知れないプランを、国王と金玉均ら開化派リーダーたちが実行しようとしていたことが、著名な英国外交官の伝記で明らかになった。二松学舎大学の田村紀之教授に紹介していただいた。
李東仁は1880年11月15日に再びサトウのもとに現れ、英国が「できるだけ多数の堂々たる艦隊を率いて、朝鮮に乗り込むことを切に期待している」と述べた。これは、6月7日に元山にきて通商を要求した英軍艦のように、個々の艦長の判断によるのでなく、英国政府の承認した正規で大規模なものを寄越せ、という意味だろう。
じつは、李はその約1カ月前に日本に来ていた。10月6日、朝鮮は密使として李東仁を日本に派遣し、対米修交の斡旋を清国公使・何如璋に依頼させていたのだ。
1882年の朝米条約の草稿は、李東仁の手になるものという。しかし密命の話は、李がサトウに伏せていたのか、それともサトウが日記で触れなかっただけなのか、これについての記述は伝記にはない。
12月1日、サトウは李東仁が辞去したことを記すとともに、「いま彼(李)の考えているのは、諸外国の代表と外交関係を協議するため、朝鮮の使節を派遣することである」と書いている。この日、李東仁は、朝鮮からの使節がまもなく来る、とサトウに教えている。つまり、諸外国との交渉が、後述する「紳士遊覧団」の隠れた使命だったのだ。李東仁が持ってきたこれらのアイデアは、開化派リーダーたちとおそらくは国王との、一致した意見だったに違いない。
年があけて1881年。サトウは4月28日の日記に、「朝鮮で国王の親日的な傾向に対する反動が起きた」と書く。この日、魚允中ら総勢62名からなる「紳士遊覧団」が東京に到着しているから、サトウは早速、団員の誰かとあってこの情報を入手したに違いない。
だがサトウは遊覧団滞在中の記録をほとんど残していない。使節の誰かと接触があり、重要な意見交換があったからこそ、書かなかったとみるほうが自然だ。遊覧団一行の帰国は10月22日である。彼らのうち、愈吉濬、尹致昊、および柳正秀の3人はそのまま日本に留まり、愈吉濬と柳定秀は慶応に入学、尹致昊は同人社に留学する。魚允中は天津に立ち寄り、帰国後は『中東紀』(東は日本の意)と題する視察記をまとめる。
李東仁は花房義質公使にも使節団派遣について、早い段階で暗示を与え、遊覧団に起債と砲艦購入の交渉をさせるという構想についても話している。だが李は2月28日、つまり、遊覧団出発の前に、花房に会ったあと消息を絶つ。大院君が放った刺客の手にかかったといわれている。しかし鄭玉子「紳士遊覧団考」(『韓』、第三巻第五号)は、「東京日記の著者宋憲斌は、六月二五日の条に東仁が日本に赴き、重要機関を巡視したという新聞記事を見たと記録している」という。
事実ならば、李東仁は難を逃れて、3度目の訪日を果したことになる。1882年7月23日には壬午軍乱が起こっており、同年6月1日以来東京に滞在していた金玉均は、帰国途中の下関でこれを知る。
9月9日の朝には、命拾いをした尹雄烈が、息子(留学中の尹致昊?)ともどもサトウを訪れている。そして同じ9月中に、李の友人と称する呉鑑が軍乱についての情報を届けにきている。9月18日の日記には、「王妃(閔妃)の生存が確認された」と記している。開化派とサトウの交流は途絶えていなかったのだ。
だとすればなおさら、さきの紳士遊覧団来日のおり、そして金玉均在京のおり、サトウと開化派の接触が皆無だったとは考えにくい。
壬午軍乱の直前に、アメリカについで英・独も朝鮮との国交を結んだ。朝独条約の写しを入手したサトウは書記官アストンに手紙を送り、「あらゆる点から見て、清国側は朝鮮との結びつきを強める決意を示している」と書いている。この時点で彼は、日清戦争を予感していたのだろうか。
たむら・としゆき 1941年、京都生まれ。一橋大学卒。東京都立大学経済学部長などをへて二松学舎大学教授。20年前に韓日の経済・経営学者を組織し、日韓経済経営会議を発足。2003年、東アジア経済経営学会(日韓経済経営会議を改組)会長。