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2006/09/22

<韓国文化>韓国ダンス界の新潮流探る

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    キム・ヨンチョル「乱場A man requiem for the lonely」

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                チョン・ヨンドゥ「空っぽの白い体」

 韓日の若手ダンサーが新作を発表する「第7回日韓ダンスコンタクト」が、3つのプログラムに分かれて26、28、30日の3日間、東京・青山の青山円形劇場で開催。また10月22日から11月19日にかけて「ダンストリエンナーレ東京06」が同劇場などで上演される。主催の高谷静治さんに同フェスティバルの意義について寄稿してもらった。
 
 前回(3月3日)この欄に「韓国現代ダンスの様変わり」という題で寄稿させてもらったが、今回はその後の韓国ダンスに素晴らしい収穫があったことをお知らせしたい。

 前回も触れたが日本では30年程前から、韓国では10年余り、「現代舞踊」「現代ダンス」「モダンダンス」「コンテンポラリーダンス」と称する公演(定義づけは評論家諸氏にお任せする)を見続けてきた。

 自分にとってのダンスは文字通り時代を映しこんだ鏡のようなもので、多くの想像力と感性を刺激してくれるものであり、けして解釈を強要しないものがダンスだと思っている。

 そしてダンス作家(振付家)、ダンサーは与えられた動きや、身体表現に伝統から発した決め事などで、つまり自分の意思に基づかない動きをただ再現するだけのものは、自分にとってダンスではないと思っている。

 そんな独断と偏見で連日ダンスの場に顔を出すのだが、「今日こそ生きたダンスと出会いたい」という気持ちが実ることは少ない。

 それでは私達はなぜダンスを観にいくのだろうか?あらゆるものが瞬く間に過ぎてゆく。舞台もそこで行われるダンスも、そこに居合わせる自分も例外ではない。イサムノグチの言葉を借りて言えば、「(略)すべてが瞬く間に過ぎ去ってゆく。ただ、できるのは過ぎ去ってゆく瞬間、瞬間の物事をとらえ、これこそ真実だと主張すること」になる。

 私達は、幸運にもこのようなダンスの現場に居合わせた時、万物の根源である無限を垣間見た気持ちになる。

 今年の上半期に二つのダンスに出会い、彼らのダンスとともに私は星虹(スターボー)を見た。まずは5月28日、ソウル・アルコ劇場で発表されたチョン・ヨンドゥの「空っぽの白い体」(ソロ作品)、そして6月末にさいたま芸術劇場で上演されたヤン・ファーブル作品「主役の男が女である時」のダンサー、ハー・スンイムである。

 いずれも「選ばれてあることの恍惚と不安」を丸ごと背負い、自らの身体を佇立することから始まる。

 チョンは五体投地を繰り返すことによってあらゆるものが過ぎ去る時間の相貌をとらえようとし、ハーは身につけているすべてを剥ぎ取って大地に身を投げ出し、自分の身体という不確かな存在に時代を重ねることによって見えてくるダンスを追い求める。まさにヤン・ファーブルが言うところの「美の戦士」の誕生である。

 チョンが沈黙の中に饒舌を込めれば、ハーは圧倒的な身体の饒舌によって地軸の逆転現象を生起させる。つまり、いずれもダンスの場に居合わせたものと、ダンスを創る側が同化し、時空間の感性や感覚的存在が消えてしまうのだ。

 前回の寄稿では、韓国現代ダンスの様変わりを、「説明過多なダンスから多彩で自由な作品創り」に変わってきたと書いたが、この2作品などは、それどころかアジアのダンスシーンを塗り替えてしまうくらいの先駆性を感じる。

 今秋の「日韓ダンスコンタクト」「ダンストリエンナーレ」では前述のチョンほか8人の韓国の若者達が、多様で多彩な作品を携えて来る。

 ハン・チャンホらの「Gong-Myung」は、韓国の祖先たちの魂が込められた陶磁器芸術魂の神霊との接触をテーマに、キム・ヨンチョルの「乱場」は、生と死のダイナミズムを描いた作品だ。チョン・ヨンドゥの新作「空っぽの白い体」、在日ダンサー尹明希の「交際とカナリア」も注目される。

 ダンスという異空間をのぞいて、その中で疾走するメリーゴーラウンドに乗り込んだ時、そこで観客は時を写した鏡を見ることが出来るだろう。

 (たかや・せいじ、フェスティバルディレクター/バニョレ国際振付作品センター芸術評議員)


■「第7回日韓ダンスコンタクト」■ 
日時:26日、28日、30日の午後7時開演
場所:青山円形劇場(東京・青山)
料金:3,000円(全自由席)
℡03・3797・5678(青山円形劇場)

■ダンストリエンナーレ東京06■
日時:10月22日~11月19日
場所:青山円形劇場ほか
料金:3,500~4,500円
℡ 同上