済州道が大飢饉に見舞われた200余年の朝鮮朝時代。私財を投げ打って、餓死から道民を救った女性がいる。来年の高額紙幣の人物にも推された、韓国女性史を彩る金萬徳その人である。彼女の分かち合いと施しの愛精神を再現しようと、「金萬徳の分かち合いのコメ積み上げ」祝賀行事がこのほど済州市観徳亭広場で行われた。故郷が済州道の在日2世、呉賛益氏らも行事に参加、コメ買い上げ資金を支援した。
金萬徳は、済州道民から「済州島の永遠なる母」と慕われている。歴史上の人物としてその人気は高く、韓国銀行が選んだ金九など高額紙幣の10人の人物候補から惜しくも脱落したが、済州道はもとより、韓国全土の女性・社会団体から強く金萬徳を推す運動が展開された。
しかし、その分かち合いと施しの精神は200余年の月日のなかで人々の記憶から薄れていた。ところが、その業績を再評価する機運が起こっている。そのシンボルがコメ積み上げ事業だ。
金萬徳記念事業会は、金万徳の業績と精神を広く知らせて継承するため、ここ1カ月間にコメ千俵を集める行事を大々的に展開した。そして、道民らの積極的な参同によって集められたコメを積み上げる祝賀行事を開き、金萬徳の分かち合い精神を喚起した。
今回の行事で集まったコメは1277俵。特に、10万人の小・中・高生が参加し、萬徳の善行を実践する契機となった。
金萬徳記念事業会の共同代表を務めるタレントの高斗心氏は、「我々は200余年前に分かち合いを実践した金萬徳をなおざりにしていた。いまからでも金萬徳の功労を広く伝え、その精神を継承していかなければならない」と語り、「金萬徳が道民を救っていなければ、今日の私達は存在しない」と強調した。
この「分かち合い」行事に参加した在外済州特別自治道民会総連合会の呉賛益会長は、「彼女のような先人がいることが分かり、大変感銘を受けた。自らの逆境を克服、財をなし成功したが、みなが苦しいときに私財を投げ打って済州道民を救ったことは大変なことだ。私たち海外同胞もその精神を見習うべきだと思う」と語った。
■金萬徳とは
金萬徳(1739-1812)は朝鮮時代の済州出身の医女。私財を投げ打って、凶作で飢餓に陥った済州道民を救出した人物として知られている。朝鮮・英祖王時代、萬徳は父・金應悦と母・高氏の間に2男1女の長女として済州道旧左面東福里で生まれた。
不幸にも幼くして両親と死別し、退妓・月中仙に預けられて妓生となる。妓生という賤民(最下層の身分)の待遇に苦しんだ萬徳は、官庁で妓生名簿から削除することを要請。しかし、拒絶される。それでも萬徳は意志を曲げず、牧師・申光翼と判官(朝鮮時代の官吏)・韓有枢を訪ねて嘆願した。そこで萬徳は、人々の役に立つことを約束。これによって20歳で妓生名簿から外れたが、身分制の当時としては非常に難しいことであった。
その後、萬徳は客主(他人の商品の委託販売をしたり、商人を宿泊させる仕事)で、商人としての才能を開花させる。萬徳は済州の特産物である馬毛、ワカメ、鯒、真珠や、妓生時代の経験を活かして両班層の婦女に織物、装身具、化粧品を供給。済州で巨大な商人に成長し、富を築き上げた。
1792年から95年にかけて済州道は大凶作に見舞われる。調停からの救済米を積んだ船が沈没するや、全島民が餓死の危機に瀕した。これをみた萬徳は全財産を投げ打って本土から500石のコメを買い上げ、飢餓状態の済州道民の多くの命を救った。一説には当時の道民の3分の1が救われたという。
この功績は朝廷で認められることとなる。正祖王は萬徳に願いを聞くと、萬徳は「海を渡って王様のいる漢陽(現在のソウル)の宮廷に行き、金剛山を見ること」と話した。正祖王はこれを聞き入れ、内医院の「医女班首」という官位を与えるとともに本土で最高の待遇を与えた。当時の法令では済州の女性が生きて島を離れることはできなかったが、萬徳は済州女性として初めて本土に渡ったのである。