韓国忠清南道主催のシンポジウム「百済文化と日本列島―古代から未来を考える」が13日、都内で開かれた。パネルディスカッションから洪潤基・韓国外国語大学教授と井上満郎・京都産業大学教授の話を紹介する。
古代日本における百済国からの渡来人の果たした役割りは、はかり知れないほど大きなものだった。古代の日本は東アジア世界の中では、いってみれば後進国で、その日本へ先進的な文化・文明を渡来人たちはもたらし、日本の歴史と文化を前進させるのに大きな功績を果たした。はるかな古代のことではあるが、その後の日本の歴史や文化にも大きな影響を与えたのである。
韓半島からの渡来人は、百済国以外にも新羅国・高句麗国、さらには伽耶(かや)諸国からも日本に渡来してきた。韓半島の全域から渡来があったわけだが、なかでも最も大きな影響を日本の歴史・文化に与えたのは百済国からの渡来人たちだ。古代日本と百済国は政治的・軍事的にもまた経済的・文化的にもきわめて近い関係にあり、多くの影響をこうむっている。
この百済国あるいはその地域からの人々の日本渡来には、百済国成立以前の紀元前からいくつかの渡来の波、ピークがあったが、7世紀後半に両国の関係は大きな転機をむかえた。百済国が新羅国の攻撃によって660年、滅亡したのである。危機を強く感じた日本(当時は倭国)は663年、百済国の再興をめざして大軍を韓半島に差し向けたが(『日本書紀』には2万7000人と記されている)、錦江(白馬江)河口の白村江(はくすきのえ)の戦で新羅・唐の連合軍に敗北する。百済国の回復はならず、新羅国が韓半島を統一するところとなった。
この敗北はただ日本に近しい国が滅亡したということだけにとどまらず、当時の日本国政府に強烈な国家的危機感を与えた。日本も海外からの軍事攻撃によって滅亡するかもしれないという危機感だ。そこでこれを回避すべくさまざまな策がとられたが、この時に建設された多くの山城(「朝鮮式山城」とも呼ぶ)は今も九州・瀬戸内海から大和(奈良県)にかけての地方に遺跡としてたくさん残っている。長門(山口県)・筑紫(福岡県)などにそれを築いたのはいずれも日本に渡来してきた百済人であったことが分かっている。日本の国は、これらの百済国からの渡来人の知恵と力をかりて、国土の防衛にあたったのだ。
671年の『日本書紀』の記事はもっと興味深いものだ。渡来してきた百済人の余自信(よじしん)・鬼室集斯(きしつしゅうし)たちが、法官大輔(ほうかんだいすけ)・学職頭(がくしきのかみ)などのさまざまな日本朝廷の官僚のポストについたのだ。日本国政府の官僚となり、日本人とともに日本国家の運営にあたったということになる。当時の日本は、こうした百済人たちと一緒になって協調しながら、国際的環境のもとで歴史と文化の形成を行なっていった。今風にいえば、外国人に対する差別というか特別視はまったく存在せず、日本の歴史の中でも海外に対して最も包容力のある時代だったといっていい。
後年、平安時代はじめごろ、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)・和家麻呂(やまとのいえまろ)など百済系の渡来人が参議(今の閣僚)になっている。そしてこれは当時の天皇が桓武天皇であったということに深くかかわる。
2002年日韓共催サッカーワールドカップの時の、日本と韓国の「深いゆかり」についての天皇発言はまだ記憶に新しいが、桓武天皇はまぎれもなく百済の武寧王(ぶねいおう)の血筋につながっていた。自分の血につながる人たちを閣僚に抜擢するという桓武天皇の“身びいき”もなかったとはいえないが、全体としていえばこうした国際的背景のもとで渡来人の参議への任命があった。
日本の歴史と文化は、百済国をはじめとする韓半島諸国の大きな影響下に発展した。今回の私の発表では特に百済国滅亡時のことを取り上げたが、それ以前を含めて多くの百済人たちが日本列島に渡来した。その一部の人々は日本朝廷に出仕して官僚や技術者となって日本の発展に寄与し、その子孫には閣僚にまでなる者もいた。
また他の一部の人々は日本各地の地元社会に溶け込み、地道な地域の開発に貢献した。
私は大学の授業などでしばしばこう言う。もし韓半島からの渡来の人々がいなければ、日本の歴史と文化は100年の単位で遅れていたと。つまり渡来人たちは、日本の歴史と文化を100年も前に進める大きな役割を果たしたのである。
どの地域、どの民族、どの国もかならず国際的環境のもとで歴史と文化の足跡を歩む。確かに日本は周囲を海で取り囲まれ、あたかも孤立した地域環境のように見えるが、日本は決して日本列島内だけで孤立した歴史・文化を歩んだわけではない。多くの人々が渡来し、文化・文明を伝え、また日本において暮らしを営んでいた。そうした百済国をはじめとする渡来人たちのもたらした渡来文化の影響を大きく受けて、日本はその歴史と文化を歩んでいたのである。