1593年、豊臣秀吉の朝鮮侵略によって12歳のときに鍋島直茂(佐賀藩祖)によって捕らえられ、佐賀城下に連れて来られた後、書の才能を発揮して直茂・勝茂(初代佐賀藩主)父子に仕え、1657年、勝茂の死去に際し76歳で殉死をとげた洪浩然(ホン・ホヨン、1582~1657)を紹介する「没後350年 よみがえる洪浩然の書」が、佐賀県立博物館・美術館で開催中だ。打ち込みと止めなどを強調した独特の書体で、「コブ洪浩然」とも呼ばれた書の魅力を知ることができる。
「ある日山の間に犬のほゆる声頻りに聞へ候ゆへ、人して御捜させ候へハ、一人の童子大筆を肩にかけて石の穴にかくれ居たるを、犬なとあやしミてほゆるにて、ありたる童子をつれて参り候へハ、日峯様めつらしき者に思召、中野左衛門へ御預ケ被成、追而御国ニ被遣たる。此童子が則浩然に候」(原文ママ、以下同様)
古賀精里が記した「洪浩然伝」の後半「浩然国字伝」では、洪浩然が文禄2年(1593)の晋州城の戦いの際に、鍋島直茂軍によって捕らえられ、佐賀に連行された事情をこう記している。
浩然の絶筆「忍」(1657年4月8日)には落款に「洪雲海浩然七十六歳書之」とあり、逆算すると、浩然は宣祖15年(1582)に「(晋州の)官人ノ子」(「直茂公譜」「浩然然伝」等)として生まれたことになる。晋州城の戦いの際に被?人となり、晋州の官人の子とされているため、晋州出身と思われがちだが、元和6年(1620)10月3日付の「余壽禧宛日遙書状」に、日遙の交友関係の1人として「山陰洪雲海」と記されていることから、本当は慶尚道山陰郡(現在の慶尚南道山清郡、晋州市の北西に隣接する)の出身と思われる。
官人の子としておそらく科挙を目指し、書も優れていた洪浩然の人生が大きく転換したのはその少年期。文禄2年の晋州城の戦いの際に鍋島直茂軍に捕らえられた時からだ。当初、中野左衛門(中野神右衛門)に預けられ、おそらく両親の安否さえわからず、故郷を失い、これまでの生活を失って、自らの生命の危険も感じながら、全く違った場所で違った生活を送らなければならなくなったのである。
浩然は後に、中国唐代の詩人杜甫の五言律詩「夜宴左氏荘」の最終句「扁舟意不忘」の五文字の書を、「小さな舟に乗って来た時の思いは決して忘れない」と解して書いたが、この時の想像を絶する思いをこの五文字に託したのだろう。
佐賀城下で暮らすことになった浩然は、漢詩や書に長じ、「常ニ御前ニ被召出」とあるように、直茂の側近くに仕えていた。その間、与止日女神社(河上神社)や千栗八幡宮の鳥居銘を揮毫するなど、書家としての活躍が現在に伝わる。
藩祖直茂没後は、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂にも仕えた。「洪浩然伝」等によれば、時期は不明だが、この時期、数年間五山遊学を許されるとともに、物成高100石・学問科5人扶持を拝領した。また、前出「日遙書状」の記述からもわかるように、元和6年(1620)にはすでに熊本の本妙寺の僧侶日遙との交友があり、藩を超えた被?同士の行き来があったようである。
五山遊学を終えた後は、勝茂の側近として仕え、辞書「以呂波字全」や英彦山神社鳥居銘・徳善院鳥居銘を揮毫するなど能書家として活躍し、寛永14年(1637)には上今宿町に屋敷地3畝7歩を拝領した。また、更に検証が必要であるが、六代当主洪安常の時に作成された「明暦三丁酉年泰盛院様江追腹」「明暦三丁酉年為泰盛院殿追腹之義士」には「御右筆役 晋州之官人」「御右筆役 晋州洪氏之官人」と肩書きがあり、勝茂の右筆であった可能性もある。
これも時期は不明だが、老年となり、浩然は勝茂に帰国を願い出た。一旦は許されるが、唐津境で呼び戻され、朝鮮国への帰国を断念した。
明暦3年(1657)3月24日、勝茂が江戸で没した。その報を受けた4月8日、浩然は上今宿の自邸で「忍 忍則心之宝 不忍身之殃」と揮毫し、子孫への遺訓として子の六郎兵衛(2代当主洪安多實)に与え、阿弥陀寺(現佐賀市木原)で追腹を切った。帰国の望みを断たれ、恩顧を受けた勝茂が没した時に、被?人洪浩然が選んだ道は、子孫の家の存続を念じた殉死だったのかもしれない。
まさに、浩然が残した書「忍」「不忘」が浩然の生き方だった。(図録から抜粋)
■「没後350年 よみがえる洪浩然の書」
日時:開催中(12月21日まで)
会場:佐賀県立博物館・美術館
料金:無料
TEL 0952・24・3947