現在、東洋精神科学研究家(纂命学・書・水墨画・空手)として活動。昨年は中国の重慶で大爆撃犠牲者慰霊、北京・成都では武術交流、南京祈念館70周年追悼に招待され舞と書の実演を行った。また今夏には東京で中国の巨匠と2人展を行うなど、アジアの平和を願い活動している。元々は広告会社アド・ジャパンの社長。
「経済活動で一番気を付けたのは、相手が素敵な人だとおもってくれるように身なりを整えること。トレードマークは帽子、精一杯おしゃれしてどこにでも現れた。そして堂々と、韓国名の名刺を出し、韓日の文化的素養を身につけた経済人として振舞った。だから韓国のことはもちろん日本の茶道・花・舞踊も習った。時代的に珍しがられ、官庁にも企業にもマスコミにも随分可愛がられた。アイデンティティーを表に出すことで私自身恥ずかしくないように学ばなければならなかったし、またよい影響を与えてくれる人にもめぐり合えた」
在日を意識したのは小学生のとき。「チョウセン」といじめられて家に帰ると、母から、「米の一粒も世話になったことないのに偉そうなことをいうな、おまえは日本人、うちは韓国人、何か悪いかと相手に言え」と教えられた。
中学時代、生徒会執行部にいたが、国旗掲揚時、日の丸を揚げる役目だったがものすごい違和感があった。日本語がほとんど話せず、韓国式ヘアスタイルでピニョ(髪飾り)をさし、片膝立てて座っていた祖母がいた。また日本名が朴に山をつけていただけだから、一見して韓国人だと分かる。韓国人を隠そうにも隠せない環境があった。
「今にして思えばその祖母が一番私に影響を与えていた」
高校1年のとき、同胞の夏季学校に参加する。歓迎の学生たちの愛国家に感動し、ここが祖国かと思ったという。日本に戻って韓国かぶれが始まった。まずはチョゴリ姿でデパートを練り歩く、大学入学から本名使用、入学時名前を呼ばれるとクラス全員が珍しそうに振り向いた。卒業式にはやはりチョゴリで出席。そして朝鮮通信使との出会いが人生を変えた。
「20年前、機関誌三千里の社主である故徐彩源氏がたまたま私の絵を見て、韓国中央博物館で初の朝鮮通信使展に招待してくれた。徐彩源氏は、朝鮮通信使の一行が淀川をのぼる屏風絵をお持ちで、その絢爛豪華さは目を見張るものだった。そして朝鮮通信使の映画を製作した辛其秀先生と出会う。朝鮮通信使に導かれたような状況だった」
「当時の日本と朝鮮のことを理解すると、もやっとした在日の劣等意識がふっとぶ。その頃は文化的国家的にも朝鮮が上の立場だった。だから朝鮮朝時代のミュージカルやポジャギ展などを主催して韓国の伝統文化を紹介した。500年も続いた朝鮮朝文化は、在日には祖国の文化的誇りを植え付け、日本の人には憧れを抱かせた。長い歴史の中で民族は言ったり来たり定住して日本人になったり韓国人になったりした。在日韓国人は日本に裸状態で連れてこられて数十年だ。3代から4代目になるとそろそろ落ち着き日本にとっても経済力と文化力がある重要な人材になっている」
40代半ばになり社長業から引退を決意した。
「45歳を過ぎたころから経済活動がいやになってきた。社長業を20年もするとエネルギーが落ちて、気力と体力の限界を感じた。会社の利益を韓国の文化活動につぎ込んでいたから、社長としては失格状態になっていた。弟に経営をゆずり、筆一本で勝負しようと決めた。簡単に絵や書は売れないから貧乏に徹して生きることにしたが、社長時代の金銭感覚がいまだに残り、まだ子供2人を学校に行かせなくてはならないので、常に不安の中で制作活動をしている。ただ芸術家は崖っぷちに立たないといい作品ができないので、逆に良いのかもしれない」
この間、朝鮮通信使船の再現事業も行ったが、瀬戸内の寄港地・下蒲刈町に企画提案し、実行まで5年かかった。
「日本各地に残る古文書や絵から図面をおこした。保管の関係で10分の1サイズの3㍍40㌢となったが、実物大で釜山から瀬戸内を回航させてみたかった」
今後の創作活動、在日社会について聞いた。
「韓国と日本の伝統と美が入り混じった、在日の私しか創れないものを完成させたい。在日組織は、精神の支柱をしっかりと立てることのできる影響ある組織になってほしい。経済関係だけでなく魂のつながりと安らぎを求めることが大切だから。在日は特殊な存在だ。祖国はあっても母国でない。在日は今後、韓国系日本人として日本の根幹事業をめざすことが必要ではないか」