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2008/11/07

<韓国文化>朝鮮画壇に熱いまなざし向けた日本

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    伝李嚴「群禽図」16世紀 大倉集古館蔵(左)、伊藤若沖「白象群獣図」18世紀 個人蔵

 「朝鮮王朝の絵画と日本 宗達、大雅、若沖も学んだ隣国の美」が、栃木県立美術館(栃木県宇都宮市)で開かれている。朝鮮王朝は、李成桂によって1392年に創始されて以来、518年の長きに渡り続いた。日本とは朝日貿易などによる物資の往来と共に文物の交流が盛んに行われた。中でも、王朝絵画から日本画壇が受けた影響は大きかったという。同展は、日本と同様に中国絵画からの影響を強く受けた朝鮮王朝の絵画を通観し、室町・江戸絵画との影響関係を探ることによって、東アジアにおける同時代絵画について知る企画である。同美術館の橋本慎司・特別研究員に文章を寄せてもらった。

 本展覧会は第1部「朝鮮絵画の精華」、第2部「日本人のまなざし」の2部に分けて構成されている。第1部では朝鮮絵画史を「山水画」「仏教画」「絵画と工芸」「民画」などジャンルごとに通観し、第2部では日本絵画とのかかわりを見る。本稿では第2部を中心に、以下紹介していきたい。

 第2部「日本人のまなざし」では、まず第5章「交流の形―朝鮮通信使の果たした役割」において、日本と朝鮮王朝との交流の様相を見ていく。

 朝鮮王朝以前も、1367年にはすでに高麗の使節が来日し、足利3代将軍義満や大内氏は、朝鮮王朝とも対等な外交関係を結んで貿易や使節の往来を重ねていた。

 そして戦国の世となると、秀吉による文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)によって両国の関係は灰燼に帰すが、その後国交回復に尽力した徳川家康と朝鮮王朝側の理解により、1607年に朝鮮通信使の来朝がようやく実現する。

 このように日朝両国にとって大きな政治的意義を持った通信使の往来は、その目的達成以外にも多くの文化面での交流による産物を生み出した。

 朝鮮との関わりを持った周文と秀文という二人の画家の存在は、室町絵画の展開にとってきわめて大きい。中央画壇に君臨した御用絵師や、周防の雪舟、関東の雪村など地方の画人たちにとっても、中国絵画だけでなく朝鮮王朝伝来の絵画からの影響という視点によって、改めて考えてみる必要があるだろう。

 また江戸時代になると、使節として来日した画員と直接交流を持った池大雅や、一大イベントであった来朝行列を描いた版本類、また使節に対して幕府より贈られた200双におよぶ屏風絵など、両国の交流の形として残された絵画資料の存在は、重要な文化遺産としての価値を持つ。

 次の第6章「日本画家のまなざし―日本絵画に与えた影響」では、日本の画家たちの活動を、いかに朝鮮王朝の絵画との関係において語ることができるのか考えたい。

 朝鮮王朝初期画壇の巨匠安堅。韓国絵画史における「三大家」のうち、作品が残り画風が伝わるのは安堅のみである。安堅ら朝鮮前期の画家たちは、中国北宋時代の李成、范寛、郭熙など、壮大な自然の再現を目指すスケールの大きな絵画を範とした。それに対して、如拙、周文に始まる日本の御用絵師たちは、中国南宋時代の馬遠、夏珪などすっきりと整理された構成をもつ絵画を範とする。14―15世紀の日朝両国絵画がその発展の基礎としたのは共に中国絵画であった。

 では、日本の画壇が範としてきたものは中国絵画だけであったのだろうか。日朝間で物資と人が活発に往来する中、文物の交流も公私を問わず進んでいた。幕府が積極的に招来した中国の南宋絵画のほかに、李郭派様式の朝鮮絵画も多く入ってきたことは間違いのない事実である。しかし、室町幕府が権威ある絵画と認めていたのは夏珪様式によるものであったため、李郭派様式は中央におけるスタンダードにはなり得なかった。それらはむしろ、地方画壇で吸収されたと考えられるだろう。

 あの雪舟やその画系画人たち、関東水墨画壇の啓孫や雪村など個性豊かで束縛のない自由な立場にあった画家たちの感性は、朝鮮絵画のもつどこかエネルギッシュで周辺絵画的イメージに適合するところがあったのではないだろうか。

 さらには、16世紀半ばに登場する李嚴や申夫人らの描く花鳥、禽獣、走獣のイメージの一部は、宗達から宗達派、さらに光琳派へと受け継がれた。また朝鮮の葡萄図の流れは16世紀の元賀や18世紀の伊藤若沖へも波及する。越前を地縁とする曾我派の大徳寺での活動や、飛騨地方に残る朝鮮画風など、朝鮮王朝の絵画は、日本の各地で興った画壇に対して有形、無形の影響を及ぼしていたといえるだろう。