美術史研究家の韓永大氏がまとめた『柳宗悦と朝鮮 自由と芸術への献身』(明石書店、四六判、288㌻、3300円)が、このほど出版された。本紙に1年半(2004年5月~2005年12月)にわたって連載されたものに加筆修正したもので、韓半島が日本によって植民地とされた時代、朝鮮工芸品を愛し、朝鮮民族の自由を願った柳宗悦の生涯をまとめたものだ。韓永大氏に自著について文章を寄せてもらった。
本書では実践の思想家・柳宗悦(1889~1961)が朝鮮の「自由と芸術」について成し遂げた業績の全貌を描き出そうとした。特にこれまでほとんど光のあてられなかった歴史認識の部分にも力を注いでおり、I・カントや勝海舟、竹添進一郎、尹致昊(ユン・チホ)らに関する記述は、単行本としては最初のものとなる。
柳は、朝鮮には美術は存在しないと一般的に信じられていた頃、李王朝時代(1392~1910)の朝鮮工芸品の中に、朝鮮の固有にして独自の美があることを発見し、全力を尽してこれを天下に認識させた人であった。
柳は20歳(1909)の学生の時、すでに李朝白磁壷に心動かされ、買い求めている。異常な若さの、異常な決断力であった。
そして1914年、浅川伯教(あさかわ・のりたか)の持参した李朝染付秋草文面取壷に接して、そこに型状美と自然美を発見し「驚愕」したのだった。
なぜかくも驚いたのか。それはちょうどこの頃、柳はカントの認識論に深い感銘を得ており、特に「自然の美が芸術美である」とするカントの思想と一致していることを発見し、驚き喜んだと考えられる。
柳にとって、朝鮮民族とは「固有にして独特な、偉大な芸術を生む心」を持った民族であった。(「朝鮮の友に贈る書」)
しかし当時、朝鮮は日本の武力支配の植民地下にあって、「皇民化政策」「同化政策」が採られており、その「固有で独特の芸術を生む心」は強制的に失われつつあった。
柳はこれに真っ向から非を唱え、立ち上がった。「偉大な芸術を生む心を破壊し抑制することは世界の損失であり、罪悪中の罪悪である」(同上)と、日本の国策、軍国主義を厳しく批判した。
さらには、「独立が彼等の理想となるのは必然」とまで言って、朝鮮の独立を支持した。(「朝鮮人を想ふ」)
柳のこの勇気ある発言と行動には、カントの思想、特に「実践理性批判」の道徳律の思想が根底にある(『朝鮮とその芸術』序文)ことは明白である。
柳は同時に、勝海舟(1823~99)を中心とする歴史的な人間関係からも、大きな影響を受けているものと考えられる。
勝海舟は日清戦争に反対し他民族侵略に反対するなど、東洋の和平を強く望んでいた。
勝は柳の母・勝子、父・楢悦は勿論、叔父・嘉納治五郎(勝子の弟)とは肉親に近い関係があり、遡って祖父・嘉納次郎作とはペリー来航後の1855年以来の親しい交わりがある。また叔父・治五郎の義父・竹添進一郎も勝と親しく、彼は朝鮮の甲申政変(1884)時の日本公使であった。
金玉均と共にその政変に参加したのが尹致昊で、1920年柳はその尹致昊とソウルで会っている。そこには3・1運動の担い手だった在日朝鮮人留学生たちの仲立ちと交流があった。
柳は朝鮮の人々に対する敬念と情愛を忘れず、「発言の自由のない朝鮮人に代って」果敢に発言し行動した。「朝鮮民族美術館」(1924)には朝鮮の「自由と独立」という柳の精神が込められており、それは何らかの形で復活・継承されるべきではないかと考える。