2008年度日韓交流展「日韓の武具」が、10月3日から12月7日まで、宮崎県立西都原(さいとばる)考古博物館で開かれる。韓国出土の甲冑と南九州出土の甲冑を比較展示し、古代における韓日両国の交流を検討する展示会で、韓国出土約13点、宮崎県出土約35点の武具が展示される。宮崎県立西都原考古博物館の北郷泰道・学芸普及担当主幹の文章を紹介する。
甲冑(かっちゅう)は、戦いのための装具である。生身の身体を、死から遠くに置いておくという保証のために、自らを覆うのである。
弥生時代には、惣利遺跡(そうりいせき・福岡県)の刳(く)り貫(ぬ)き式の木製甲に見られるように、木製の甲(よろい)が使用された。広く防御の道具としては、松本塚(西都市)の周溝からも木製盾が出土したように、古墳時代においても甲などの武具にも木製も多く用いられたであろうことは想定できるし、東大寺山古墳(奈良県)のような革製甲の存在も知られている。もとより武具に限らず、有機質素材の製品の多様性は、近年よく知られるところとなった。
しかし、鉄製の武具こそ最強の防具であり、武器はそれを貫くために先鋭化し、対応する武具はそれをさらに防ぎ、騎馬戦術の採用も含めて、より軽やかに攻撃と防御を可能とするように改良された。以来、そのように人々は、武器と武具とを捨て去るのではなく、相互に精鋭化を繰り返し、深い泥濘(でいねい)から足を抜くことができないでいる。
弥生時代から古墳時代の日々、戦いは日常であった。『宋書』倭国伝に記す「昔より祖禰(そでい)みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉(ばっしょう)して寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず」とは、記述全体の検証は慎重に整理されなければならないとしても、5世紀の東アジアの日常を捉えた記述であった。
武具としての甲冑の誕生は、中国大陸・韓半島に起源するが、大陸においては初期的に小札(こざね)で構成する甲冑から出発する。それに対して、半島南部と列島弧においては、大型の地板で構成する甲冑を生み出した点で、その系譜の独自性と発展性は軽視できない。そして、その技術的な発展は列島弧内では鉄加工の熟達を伴いながら、長方板革綴短甲(かわとじたんこう)・三角板革綴短甲に始まり、5世紀前半の鋲留(びょうどめ)技術の導入により三角板鋲留短甲を成立させ、それは次の段階として多鋲式から少鋲式へといった鋲留技法の進展も併せて、5世紀後半には量産を横矧板(よこはぎいた)鋲留短甲という形で実現させた。
宮崎県内出土の甲冑に焦点を合わせれば、地下式横穴墓からの出土が多数を占める。しかし、これは地下式横穴墓の発掘調査例が高塚古墳をしのぎ圧倒的であるという調査事例の多寡の不均衡がそのまま反映されているに過ぎない。高塚古墳の調査事例がそれなりの統計的な量に達しない限り、南九州における高塚古墳と地下式横穴墓との総体的な甲冑保有のあり方を公平に論じることはできないと思われる。それは、南九州の担った軍事力の実態の解明についても同様である。
しかし、地下式横穴墓の中での出土については、ある顕著な傾向を看取することができる。馬具と甲冑の進化は、騎馬戦術の展開と寄り添うように両輪ではあったが、地下式横穴墓の出土例を見ると、両者の同時保有は限定的であったことが知られる。平野部では、下北方5号(しもきたかた、宮崎市)・六野原10号(むつのばる、国富町)・本庄16号(その他、江戸期に発見され絵図の残された国富町本庄の猪塚(いのづか)の下に存在したとされる地下式横穴墓にも甲冑と馬具が見られる)で、内陸部では小木原6号(こきばる、えびの市)のみである。
一方、甲冑のみの副葬は、平野部では西都原・六野原・本庄で、これに鹿児島県大隅半島の祓川(はらいかわ、鹿屋市)が加わる。なお、内陸部では小木原の他は島内(しまのうち、えびの市)に圧倒的に集中する点は留意する必要がある。それとは対照的に馬具類の出土は、島内では1例のみで、久見迫・馬頭(くみざこ・ばとう、えびの市)に集中する点も併せて考慮しなければならない。地下式横穴墓群の単位集団間における役割、ないしは鉄製品の保有原理に一定の原則が存在したことが考えられる。
ともあれ、これらの甲冑の副葬の在り方は、初期的には木脇塚原A号(きわきつかばる、国富町)の三角板革綴短甲と長方板革綴衝角付冑の例を見るものの、多くは量産が可能となった鋲留技法以降の甲冑によって占められている。これは、威信財から現実的な武力を担う武具への展開を示し、それは列島弧内の動向とも添うものであった。
そして、6世紀代に入ると挂甲が、鋲留式甲冑に入れ替わるように主体を占めるようになる。西都原4号地下式横穴墓と墳丘111号墳との関係で言えば、地下式横穴墓からは横矧板革綴短甲1領と横矧板鋲留短甲2領が出土し、それとは別に墳丘盛り土中に構築された埋葬施設に挂甲が伴ったことなどは、5世紀後半以降の遺構と副葬品の時代変遷を示し象徴的である。
半島では高句麗・新羅・百済、そして加耶の小国家群の攻防を、甲冑を帯びた武人たちの群れが担い歴史の表舞台に踊った。そして海を渡って、加耶を時に介しながら、北部九州は半島東南部(新羅地域)、南九州は半島西南部(百済地域)との近い関係を基礎とし、呼応した。畿内が南九州を重要視したのはこの点である。しかし、それは古代国家形成に向けて6世紀前半の「磐井(いわい)の乱」で一定の決着を見るが、大陸・半島との緊張関係はむしろ直截的に高まったと言える。そこには滅びの人々が確かに存在し、深く傷付いていた。南九州の人々にもその傷が刻まれ、半島の人々の中にも同様の傷が刻まれている。(図録より抜粋)