1987年、静岡県立大学の教授に就任した。外国人として日本の文部省の教員資格審査をクリアした初の日本の国公立大学正教授誕生だった。
「70年代終わり頃から米国の大学教授職に就いたが、韓日両国の多くの人たちから、『あなたは韓日のどちらかで教えるべきだ』という声が大きかった。迷ったが、外国人として、在日韓国人として初の国公立大学の教員になることに大きな意味があると考えた。外国人が教育公務員になるのはけしからん、お前の給料は税金だぞ、さっさと国へ帰れといった差別的な言動を右翼サイドから受けたりしたが、励ましてくれた日本の市民の方が遙かに多かった。1号が失敗すれば2号は生まれにくいというプレッシャーは強かった。それに潰されなかったのは多くの声援と励ましだった」
東京・大田区の生まれ。金さんの父は当時人夫出しと言われていた今日の人材派遣会社を経営し、同胞が大勢働いていた。1945年の東京大空襲で国民小学校5年生だった金さんも、トランクをかついで家族と共に逃げ回った。8月15日、祖国解放。
「夜が明けるとむしろをかぶせた死体が道端に放置される。そんな光景が絶えなかった。戦争の怖さをまざまざと知ったし、何があっても生き抜くバイタリティーも身に付いた。8月15日、玉音放送を聞いた日本人はみな泣いていた。ところが夜になると焼け残った会社の寮に住んでいたわが家に同胞たちが集まり、どぶろくを飲みながらマンセー(万歳)を叫び、歌い踊った。2つの相反する感情と行動に出あい、強いカルチャーショックを受けたことを今もよく覚えている」
父たちが大田区東六郷にある焼け残った寺で民族学校を開き、そこで祖国の言葉を学ぶ。韓国戦争が始まった時は高校生で、電柱に反戦のビラを張り歩いた。早大卒業後、比較文化学の道を拓く。64年にソウルのソアラボール芸術大学に招かれて初めて祖国を訪問、以後、韓日を往来しながら研究活動を続ける。
「私は2世だが、幼いときに3年ほど父母の故郷に帰省しているので、故郷体験がある。その後も韓日を往来し、韓国語も出来るので、他の2世とは違う部分がある。しかも日本文化を生活体験と研究で体得しているから、韓日両国の文化を共有している。それが私のアイデンティティーの原点であるが、それは努力すれば在日同胞ならだれでも体得できる。こういう経緯から、祖国も定住国の日本も客観的に見ることができるようになった。そして2つの異文化を共有したところから生まれた複眼思考を財産にするようになった」
「多くの著書を書いてきたが、一言で言えば、複眼思考から発現する世界を形にする挑戦の連続で、在日コリアンは疼いたら切除される盲腸のような存在じゃない、在日の存在価値、人権を表現したかった。我前無道 我後有道の精神を指標にかかげてきた」
地域住民の立場で長年運動を続ける。静岡人権フォーラムなどの市民団体を立ちあげたり、昨年の朝鮮通信使往来400周年では、静岡県と静岡市の依頼を受けて記念事業に携わった。
「韓日間にはいまだに課題が残されているが、朝鮮通信使が往来した時代の善隣友好の精神から、多くの教訓を学べることを訴えてきた。ほとんどの静岡県民がその歴史を知らなかったが、400周年記念事業を通して善隣友好の発信地にさえなった。その一助になったことがうれしい」
「身近にある素材や文化から人権を考えたのが『ふだん着の人権論』だが、それが私の発信した人権文化論だ。組織や国家を背負うと縛りがきつくなるが、私はある意味で一匹狼だから、自由に発言できた。これまで在日組織は人材を利用するが育てることは苦手だった。育てようとする理念も哲学も希薄だった。人材育成を早急に考えないといけない。たとえば在日の新人作家が本を書いたら3冊刊行されるまで本を買い、新人歌手がCDを出したら3枚出すまで買い、独り立ちできるように支援する。コーヒー一杯分で人材を育てる夢が叶う」
「在日の青年たちにはルーツを忘れるなと言いたい。通称名を使って日本人の振りをしてルーツの逃亡者になってはいけない。日本はそういう逃亡者を輩出してきた社会環境を積極的に変えなければいけない。通称名は創氏改名が生んだ負の遺産であり、世界で在日コリアン社会だけにあり、日本社会の差別が生んだ負の遺産でもある。差別は人為的に作られたものであり、人為的差別は人為的になくせる」