1945年8月15日、祖国が日本の植民地支配から解放されて、マンセー(万歳)の声が響き渡っているとき、当時16歳だった金時鐘さんは、解放を喜ぶことも無く茫然自失としていた。
それまで皇国臣民化教育を受けて育ち、禁止されていた民族衣装を抵抗の証しとして着て歩いた父の姿さえも、恥ずかしく思っていたからだ。
「天皇の赤子として生きるのが夢だった。ハングルも書けず、日本人以上に内鮮一体化していた。解放の日に皇国臣民としてのアイデンティティーを喪失し、どうしていいかわからなくなった朝鮮の少年は、実際は多かったはずだ」
その直後から、韓国人としての民族性を取り戻す日々が始まった。ハングルを習い、米軍政、右翼らによる呂運亨など独立運動家の暗殺、朝鮮総督府時代の法律の温存、親日派の重用と、祖国の政治的混乱が続く中、社会主義を信じ、南労党の活動に加わるが、命の危険にさらされ、日本に亡命する。49年、20歳のときだ。
「解放から亡命までの数年間は本当に貴重な時期だった。(皇国少年だった)無知な自分が恥ずかしく、学生運動になだれていった。南では民族反逆者と言われても仕方ない連中が大手を振って歩いている。それに対し、抗日パルチザン出身者で構成された北朝鮮は輝いて見えた。しかし反共の嵐が吹き荒れ、四・三事件で命の危険にさらされ、ついに日本に脱出した」
渡日後、民族学校の設立・運営、詩作活動、「朝鮮評論」(在日朝鮮文化協会主宰)の発行に参加、そして北朝鮮を支持して組織活動に携わる。しかし、北の体制に疑問を持ち、総連結成(55年)の数年後には組織から離れる。その後は日本の大学で非常勤講師などをしながら、詩作活動、評論活動を行う。
「解放後63年経っても、自分が何から解放されたのか、いまだ自らに問いかけている。民族史的には45年に解放されたし、韓国語の読み書きもできるようになったが、自分自身をいびつに育てた日本語から切り離せない自分がいる。白樺派の日本語が一番美しい日本語とされているが、そういう心的秩序から離れることが私の存在証明だ。『日本語』で詩を書くことは、自己を育て上げた日本語と向き合う作業であり、現在の自分の存在証明だ。詩は現実認識の革命であり、芸術の源泉だ。いい映画やいい舞台は、その中に制作者の詩があるからだ。詩は特定の人のみのものではない」
在日を生きるという表現を、1952年には使い始めた。
「在日は民族融和の先験的(先んじて経験する)存在だ。韓国も北も厳しい対立下にあったが、在日社会はどんなに信条・思想の違いがあっても、家族や親族間で意見の違いがあっても、一つどころを生きてきた。これが在日の実存であり、民族融和の先験的役割を持っている。在日の経験が統一した祖国で必ず生きるはずだ」
金大中政権となった98年、半世紀振りに故郷を訪れて両親の墓参りをした。過去、共産主義活動家を出した家は親類まで迫害されたが、母方の親類がずっと両親の遺骨と墓を守ってくれたという。それからは毎年のように墓参りに訪れる。祖国統一を願い、そのためにも日朝の国交正常化が必要と考えている。
「国交正常化は北の変化につながるし、拉致問題の解決にもつながると確信している」
執筆活動の傍ら、在日有志によって大阪に今年新しくできたコリア国際学園の理事長・学園長を務めている。
「在日社会の多様化が著しく進んでいる。本名で日本国籍を取る在日の若者も出てきた。これまでのように日本、韓国、北朝鮮の3カ国との関係のみで在日を語ることはできない。東アジア的視野を持ちながら、日本で生きていく意味と展望を考えなければならない時代になった」
「在日はその歴史的背景からいって、生まれながらの越境者だ。複数の国家・境界をまたいで活躍する存在となることができる。そのためには自らの出自を自覚し、越境者としての意識を持ち、語学力を身につけてほしいというのが学園運営の理念だ。この理念はいまの在日社会に対する一つの指針と成り得ると思う。在日を生きる意識と展望を持って、在日の若者たちは21世紀を切り開いてほしい」