昨年のカンヌ国際映画祭で、主演のチョン・ドヨンが主演女優賞を受賞した話題作、『シークレット・サンシャイン』が7日に公開される。「人生の絶望と救いを描いた」という李滄東(イ・チャンドン)監督に話を聞いた。
――原作を映画化するまでの過程は。
原作を読んだのは80年代半ばだが、構想を練り始めたのは2004年末ごろ、シナリオを書き始めたのは05年後半になる。06年春に書き終えたので、シナリオに半年ほどかかった。
――主人公にチョン・ドヨンさんを選んだ理由は。
彼女は女優としてではなく人間として見た場合、すごく強い人に見えると思う。何にでも自信満々で、とにかく情熱的に色々なことに取り組む人に見えると思うが、私は、すごく弱くて誰よりも脆くて傷つきやすい、そういう面を内面に隠し持っている気がした。その点が、今回のヒロインのシネに似ていると思った。
私はキャスティングのとき、その人が俳優としてではなく人間としてどういう魅力があるのかを感じるようにしている。人間として惹かれるものがあれば、きっと観客にもそれが伝わると思うからだ。彼女の場合も一個人として見たときに、まさに主人公のシネと思えたので、お願いした。
――監督は演技指導をどう行うのか。
俳優に私が望むのは、演技をせずにその人物になることを受け入れ、その人物の心を感じ取って欲しいということをお願いしている。その俳優が与えられたキャラクターになったと感じたら、それ以上は一切注文しない。なぜかというと、その俳優がその人物になったとしたら、その感情通りに動いて言葉を発しているわけだからだ。だから、こういう状況のときにはこういう感情だからとか一切説明せずに、とにかく俳優自らが感じてくれることを願っている。説明することが逆に演技の邪魔になってしまうこともあると考えているからだ。
――俳優にキャラクターをどのように理解させるのか。
シナリオもその一つだと思うし、または逆に全然違う話をすることで悟ってもらう。例えば自分の友達にこんな人がいたけどねと、別の話を持ち出して間接的に話をするということはある。登場人物はこういう性格の人だとか、「この登場人物だったらこんな行動をするというふうな分析ではなく、全然違った話にすり替えて話をするとか、ほかにもいろいろな方法があるかと思っている。
私が常に警戒していることは、監督があれこれ要求した場合、俳優が「監督はこんなことを要求している」と思って、その瞬間から俳優がそれに合わせようとすることだ。そうすると自発的なものが生まれなくなってしまう。
――主人公は宗教に救いを求めるが、宗教をテーマにしたことへの反応は?
この映画は、宗教批判ともとれるし、別の見方をすると宗教の重要さ・必要さを説いているともいえる。韓国では、「これは宗教批判の映画ですね」と言う人や、クリスチャンの方で映画を友好的に観てくれた人もいた。
主人公のシネは、宗教の中に明確な答えを求めようとする。その反面ジョンチャンという男性は、「なんで教会に通うの?」と聞かれると、「通わないと寂しい気がするし、行けばなんとなく気が楽になるから」と、無意味な答えをする。それはすごく対照的で、宗教に求めるものはそんな風に2つあるのではないかと思う。
映画を見た観客に受け入れてほしいと思うのは、私たちが生きている世の中に希望とか救いとか人生の意味があるとしたら、それは近くにあるということだ。今私たちが両足で立っているこの地にしか、希望とか救いはないのだということを考えてほしい。私たちがいる場所は少しみすぼらしく見えたり、取るに足らないところに見えるかも知れないが、自分が今いる場所でしか人生の意味や価値はないということを伝えたかった。
映画という媒体は、もともと映画の中だけで描かれているイメージと、今私たちが生きている現実の間で距離があるような気がする。できれば私はこの両者間の距離を縮めたいと思いながら、いつも映画を撮っている。人生の価値や希望は生きている現実の中で探すしかないと先ほど述べたが、だからこそ映画の中で現実をどう描くかということはすごく大事なことだ。今私たちがいるこの現実をどうやって映し出したらいいのかどう見せたらいいのかということを、撮影中も構想を練っているときも、常に考えていた。
■あらすじ■
韓国の地方都市・密陽を舞台に、最愛の息子を失い、心を閉ざしたシングル・マザーのシネ(チョン・ドヨン)と、その痛みをただ受け止めることしかできない不器用な男ジョンチャン(ソン・ガンホ)の姿を描く。ふたりを照らす太陽が昇るまでの、ゆるやかな愛の物語。