演劇「呉将軍の足の爪」が4月11日から20日まで、東京・新宿の紀伊國屋ホールで上演される。戦争、そして分断の悲劇をテーマにした韓国現代劇の傑作だ。主役を演じる青年劇場の吉村直(よしむら・すなお、写真)さんに、文章を寄せてもらった。
「呉将軍」というからには勇ましい人物を想起するだろうが、全然勇ましくなんかない。作者の朴祚烈先生の助言に、「“呉将軍”は将軍ではない。男の子が生まれると『将軍』という幼名をつけ、元気にたくましく立派な男に育って欲しいと願う親たちの微笑ましい親心から発想を得た」とある。
呉将軍はたいへん貧しい小作人の一人息子として生まれ、家から一里四方の外へ出た事も無く、“星を見上げながら野良に出て、月を見上げながら家に帰る生活”しか知らなかった。優しいおっ母、気立ての良い恋人コップン、飼い牛のモクセたちと静かに暮らして居たかったのに 。
舞台は生命が満ち溢れる牧歌的な世界で幕を開け、主人公・呉将軍は馬鹿馬鹿しい東西の司令官達のゲームに翻弄されながら、生命を収奪する戦争に巻き込まれていく。
「呉将軍の足の爪」は、本当に素晴らしい作品である。国境を超え、多くの人々の心に深い感動を伝える“力”を持っている。いま稽古場でも、スタッフを含め全員がこの作品を観客に届ける為、熱い稽古を行っている。
さて私自身を振り返ってみると、ここ数年で韓国との距離がずい分と接近している様に思う。すぐ隣の国なのだから当り前の事だ。しかし、同時に残念なことだが、まだまだ少なからず韓国への偏見を持つ人もいる。昨今、戦前に韓半島を植民地化したことや、皇民化政策と称して名前まで変えさせた蛮行を反省するどころか、それは向こうが望んだことだと嘘ぶく輩が国政の中枢に居座っているが、何とも恥ずかしい限りである。まずは過去の事実に真摯に向きあい認めること抜きに本当の交流は育まれない。
今年7月4日には、私の故郷熊本県宇城市で、梶山季之原作・ジェームス三木脚本演出の『族譜』という作品を上演する。これは私の小・中学校の同級生達が中心になり実行委員会を立ち上げてくれたのだ。
『族譜』の内容は、戦前の朝鮮半島で日本が行なった「皇民化政策」の一環「創氏改名」が中心となる。この芝居の中で、豊臣秀吉の蛮行と、それに対比して朝鮮通信使の事をはさみながら、普段はやさしくて親切な日本人が「愛国心」という合い言葉により侵略者に変貌することが指摘される。
二度にわたる豊臣秀吉の侵略の先陣を切ったのが加藤清正だ。いまだに熊本では英雄である。そのお膝元での公演!実際、同級生たちの反応も「こら重たか!」であった。さもありなん。だが私いわく「重たかろ。ばってん、事実たい!今でん京都には『耳塚』が残されとる。この芝居ば観んとしゃが(観ないとしたら)、知らんままに過ごす人が多かろ。俺の仕事は、演劇というのは、世の中の「偏見」と戦い、人間性を踏みにじる理不尽なものを告発し、観客に提示する仕事たい!」(彼らに言いながら、自分の中であらためて得心!)
かように、差別の根は深い。差別とは真実から目をそらせる偽政者の常とう手段である。だからこそ我々は歴史から学ばなければならない。そして、互いの国の風習、文化を理解しあわなければならないのだ。我々の仕事は、人間の尊厳を守る闘いを軸に、多くの人々と連帯する事にある。芸術はその先頭に位置するものだと思うし、その芸術にたずさわっている事を誇りに思う。演劇で対話は可能であるし、もっと観客の中に飛び込み人生を一緒に語る事だ。
翻訳者の石川樹里さんによると、私は今まで上演された「呉将軍」役の中で最高年齢だそうだ。若者を演じようとは思わない。庶民の代表として愛すべき存在であればと思う。
百聞は一見にしかず、劇場に足を運び自分の目で確かめて下さい!精一杯舞台で生きたいと思っている。
■呉将軍の足の爪■
韓国の著名な劇作家、朴祚烈さん(78)の代表作。1974年に発表するが、事前検閲で上演禁止処分となる。88年に解禁、上演され、百想芸術大賞、演出賞、戯曲賞を受賞した。
「呉将軍」と呼ばれる貧しい小作農の一人息子が、ある日軍隊に招集され、軍司令官に利用されるが
。演出は瓜生正美。