高麗美術館(京都市)が開館して、今年で20周年を迎える。韓日文化交流に貢献するためつくられた同美術館の歩みを、李須恵・同美術館研究員に振り返ってもらった。
「私は詔文さんの個人史の詳細を知らないけれども、この美術館の実現に至るその人生の意義の深さを思わずにはおれず、陳列品が美しければ美しいだけ、感動せずにはおれなかった」
これは国語学者である故寿岳章子さんが、高麗美術館開館に寄せた一文である。
1988年10月25日。温かく祝福された鄭詔文は、満面の笑みを浮かべていた。
「“高麗美術館”を一つこしらえたい。南を支持するも北を支持するも、色分けのできない共通の小さな広場を美術館という名前で持ちたい」。夢を叶えた4カ月後の1989年2月、鄭詔文は亡くなった。
1918年慶尚北道醴泉に生まれ、6歳で一家とともに日本へ渡った鄭は、三十代半ばを過ぎた頃、京都の古美術店でみた白磁壺に心を奪われた。その壺が自分の生まれたかつての朝鮮で作られたものと知ったとき、衝撃と感動に包まれる。
遊技業や飲食業で基盤を築く傍ら、朝鮮の古美術品を求め、実兄鄭貴文とともに朝鮮文化社を創設。季刊誌『日本のなかの朝鮮文化』は1969年から81年の間に50号まで刊行された。ここで中心となったのは「朝鮮とは何か」を古代史から紐解く座談会である。上田正昭、林屋辰三郎氏ほか金達寿、李進熙、森浩一、直木孝次郎、司馬遼太郎など多くの著名人が毎号のように参加した。現館長を務める上田氏は「本当は日本人が自らに問うべき仕事を朝鮮人がはじめるということに、ある意味ではやられたという感じもありました。小さな雑誌ではあるけれども、その意義は大きい」と述べている(『日本のなかの朝鮮文化』第40号)。
日朝の古代文化を見つめ直し、その史実を手探りで発見することは故国への思いを確かめる作業となった。またこの雑誌を通じて知り合った多くの文化人との交流は、平坦ではない美術館設立への尊い原動力となっていった。故国を離れて65年。分断された彼の地を頑なに踏もうとしなかったその心根は、いまや想像することしかできない。しかし胸焦がれる思いを亡くなるまで抱き、「在日」を貫いた志操は、高麗美術館でしっかりと息づいている。
当館では一般の方々や小学生から大学生までのあらゆる人々を対象に、展示解説を行っている。単なる美術品としての視点だけではなく、当館の成り立ちを知ってもらうことで、文化財を取り巻く歴史背景や他者への理解を促すことに努めてきた。たくさんの熱いメッセージが寄せられ、もっと朝鮮文化を知りたいという要望は私たち館員の心を何よりも喜ばせる。
鄭詔文コレクションは陶磁器をはじめ、絵画、木工品、金工品など主に高麗から朝鮮時代にかけて制作されたものが伝わる。国公私立施設、あるいは個人所有のものを含め、日本には数万点におよぶ朝鮮文化財が残り、その規模からすれば高麗美術館が所蔵するものはほんの一握りである。しかしその約1700点は、すべてこの日本で蒐集されたことに意味がある。これらが単に「文化財」ではなく、祖先が大切にしてきたものであることを思えば、いかなる経緯があるにせよ、どれもこれも愛着を覚えるものばかりである。
20年の歩みのなかで忘れられない事件がある。開館10周年の1998年に起こった盗難事件である。鉄格子を破って侵入し、高麗青磁や朝鮮白磁を盗み、破損させた心なき悪党は後に逮捕されたが、その時に盗まれた5点はいまだ戻っていない。日本にあった朝鮮の陶磁器が朝鮮を祖国に持つ者の手に戻り、再び奪われてしまった。その悔しさは一日たりとも忘れたことはない。
今年、開館20周年を記念して3つの特別展が開催される。4月12日から5月25日まで「愉快なクリム-朝鮮民画」展、9月6日から10月13日まで「ポジャギとチョガッポ-女性たちの糸と針の造形」展、10月18日から12月23日まで「鄭詔文のまなざし-朝鮮文化への想い」展である。
そして秋には、鄭の故郷である慶尚北道周辺の民俗村や両班の住まいを訪ねる旅などを予定している。また開館当初より続く研究講座では、72年に発見された高松塚古墳と朝鮮の関連性に改めて着目し、著名な講師陣による充実した内容の連続特別講座を開催する。
高麗美術館が「日本のなかの朝鮮文化」となって20年。創設者が望んでいたように、日本や朝鮮・韓国といった国籍、思想、言語を超え、あらゆる人々にじっくりと自身の眼で見て、感じて、楽しんでもらえる「美と志の美術館」であり続けたい。李須恵(高麗美術館研究員)
■高麗美術館名品展「朝鮮の美術工芸-刺繍・螺鈿・華角を中心に」
日程:開催中(4月6日まで)
場所:高麗美術館
料金:一般500円、大高生400円
℡075・491・1192