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2009/06/19

<韓国文化>薩摩焼宗家・第15代沈寿官さんに聞く

  • 薩摩焼宗家・第15代沈寿官さんに聞く①

    チン・ジュカン 1959年鹿児島生まれ。83年早稲田大学卒業。84年京都市立工業試験場修了。88年イタリア国立美術陶芸学校卒業。90年韓国・京畿道の金一萬土器工場でキムチ壷制作修行。99年第15代沈寿官を襲名。

  • 薩摩焼宗家・第15代沈寿官さんに聞く②

        第15代沈寿官作品 「薩摩蝶乗花瓶」

  • 薩摩焼宗家・第15代沈寿官さんに聞く③

    第15代沈寿官作品 「薩摩騎牛童像」

 約400年前、豊臣秀吉の朝鮮侵略時に薩摩に連行された朝鮮陶工の子孫である薩摩焼宗家第15代沈寿官さん(49)さんに、15代としての活動、韓日文化交流などについて話を聞いた。沈さんは99年に第15代を引き継ぎ、今年で10年目を迎えた。

 ――まず10年前に、第15代を継いだ時の心境を聞かせてください。

 若い頃は家を継ぐことに不安と嫌悪を感じていた。自らの人生が制約されるわけだから、若者として当然な気持ちだったと思う。しかし、一方では歴代が己を滅して投入してきた家業に背を向けることは、父を含めた先人達に対して無礼ではないかとも感じていた。

 改めて心を整え、陶芸の世界に入ってみると、自らの中にあったもう一人の自分を見出すようになった。そうやって受け継ぐことを決意した。

 ――第15代を襲名してから10年、何を見出しましたか。

 襲名したときは、これで逃げられないなと思った(笑)。最初の数年はイケイケドンドンとでもいうか、恐さを知らなかったが、その後は壁を感じ、内面をみがく時期だったと思う。

 文明の利器など何もなかった時代の先人達の優れた手仕事に出会い、そこから熟慮と哲学を学んだ。先人達の残した遺品、作品を見直す中で、400年も前に玄界灘の波濤を越え、見知らぬ国で陶芸の技を糧に第2の人生に挑んだ初代達の悲しみを偲んだ。言われの無い偏見の中で耐えながら、真っ直ぐに父祖の業を守ってきた人々の重みを感じた。

 ――沈家の歴史の重みを感じたことで、仕事に変化が生じましたか。

 未知なる「未来」に挑む事は、通り過ぎた未知なる「過去」に挑むのと同じであることに気づいた。先代達の作品は過去の作品であっても、自分には新しい未知な作品だ。その作品づくりを理解するだけでも、一生を費やす作業といえる。過去にあったが今は失われた技術や原料もある。それらに対する考察も必要だ。

 沈家の伝統は、私を縛るものではなく、いまや、私にとってかけがえのない宝となっている。

 ――今後の活動について教えてください。

 具体的には、歴代沈寿官の作品や遺品を展示した美術館の拡張、秋に出す新しいブランドの準備、原料調達ルートの開拓などがある。沈家を継ぐということは、地域の歴史を継ぐことでもあるから、町おこしにも貢献しないといけない。様々なアイデアを出しチャレンジしていきたいと考えている。今の「私の仕事」は、私の仕事であると同時に、父を含めた歴代の工人達、そして工房の仲間、すなわち「私達の仕事」であることを忘れずに、現代(いま)の時代に挑んでいきたい。

 ――韓国の陶芸・工芸を愛した日本人・浅川巧の生涯が映画化されることになり、文章を寄せていますが。

 韓日関係だけの映画ではなく、浅川巧の人間性が伝わる普遍的な映画になってほしい。浅川の人間愛、芸術を愛する心情、人柄は、万人に伝わる共通項だからだ。完成を期待している。
 
――最後に韓日関係について一言お願いします。

 韓日関係は以前に比べれば、とてもうまく行っていると思う。ただお互いをもっと知り合う必要があるのではないか。自らの目、身体で理解すれば、反日・反韓の意見に惑わされることもなくなると思う。浅川巧が自らの足で韓国を歩き回り、理解を深めたように、若者達も実際に体験してほしい。在日社会も4、5世の時代になっていく。祖父母や親の世代とのつながりだけでルーツを見るのではなく、自分なりにつながりを作っていってほしい。そして世界的に視野を広げることで、可能性も広がっていくと思う。


  チン・ジュカン 1959年鹿児島生まれ。83年早稲田大学卒業。84年京都市立工業試験場修了。88年イタリア国立美術陶芸学校卒業。90年韓国・京畿道の金一萬土器工場でキムチ壷制作修行。99年第15代沈寿官を襲名。