「キトラ古墳壁画四神―青龍白虎―」が、奈良文化財研究所飛鳥資料館で開かれている。キトラ古墳壁画の青龍と白虎に関する特別展で、韓国・中国の関連遺跡も紹介され、古代東アジア交流の足跡を知る貴重な展示会となっている。
キトラ古墳石室東壁中央に描かれている青龍は、石室の天井石と側石の隙間から侵入した泥水で覆われ、前足の先や舌、上あごが辛うじて見えるだけであり、現況ではその姿の詳細を知ることはできない。
キトラ古墳青龍の姿を復元する第1の鍵として、内部調査の際に撮影された赤外線写真がある。泥の下にある頭部や頚部、前脚などをある程度捉えることができた。
第2の鍵となるのは、高松塚古墳の青龍。キトラ古墳の四神図のうち、白虎と玄武の姿が、高松塚古墳のそれと大変類似している。赤外線写真を見る限り、青龍の姿も同様である。
第3の鍵は、型紙の使用である。壁画の下絵を製作する際に、多くの人物や動物などの輪郭を手早く簡便に描くために、型紙を使うことが知られている。高松塚古墳の青龍と白虎も型紙が用いられており、両者が表裏の関係にあるものの同じ姿勢をとっていることが確かめられている。
龍の図像は、もともと中国で発生、発達し、周辺地域に伝播、派生したものである。キトラ古墳青龍の特徴の一部を後漢代の龍の図像に見出すことができる。
朝鮮半島の高句麗、百済でも青龍図は描かれた。これらは、中国の図像に起源をもつため、それらと共通性をもつものの、蛇のような鱗に覆われた細身の身体や表現が特徴的な顔など、在地的な特徴も明瞭になってくる。このため、キトラ古墳のものとは、類似点よりも相違点のほうが多いと感じられる。
日本に龍の図像が持ち込まれたのは、弥生時代と考えられ、土器などに龍とされる絵が刻まれている。古墳時代には、武器や帯、装身具などを飾る図柄として、新たな図像が将来された。そして、飛鳥時代以降、青龍ないし龍の本格的な図像が表現されるようになる。
四神は、東西南北7組ずつに分けられた、太陽の運行コース(黄道)や木星の運行コース(赤道)付近にみられる28組の中国の星座(二十八宿)のうち、各々の方角の代表的な星座の形を龍、虎、鳳凰、亀蛇の形に見立て、五行説で各方角を表す4色(東-青、西-白、南-赤、北-黒)をつけて呼んだものである。
青龍と白虎は、古くから対として表現されている。現在、知ることのできる最古の事例は、約6000年前の新石器時代にまでたどることができる可能性がある。仰韶(ぎょうしょう)文化に属する河南省濮陽(ほくよう)市西水坡(せいすいは)遺跡で発見された貝殻による地画面がそれである。これは、南に頭を向けて伸展葬された人骨の南側にバイガイの貝殻を埋め込んで北に頭を向けた龍(東側)、虎(西側)とおぼしき動物を表現したものである。
次に、キトラ古墳の青龍・白虎図について注目されることは、キトラ古墳の青龍と白虎の姿が極めて類似する点にある。実は、白虎の胴体が伸長し、龍化する現象が中国では知られており、それが背景にあると考えられる。なお、こうした白虎の龍化、青龍・白虎の姿態の類似という現象は、高句麗でも6世紀後半とされる五盔墳(ごかいふん)4号墓以降みることができ、6世紀末から7世紀初頭とされる江西大墓では顕著である。
キトラ古墳の青龍・白虎図の特徴として、両者がともに右を向いている点を指摘できる。中国においては、青龍・白虎が朱雀方向を向くのが原則である。しかし、これは、墓誌や壁画などに当てはまることであって、実際には例外があり、方画規矩(ほうかくきく)四神鏡や十二支四神鏡などの銅鏡では、両者が同一方向を向くことがままあることが知られている。
また、後漢の王充が著した『論衡(ろんこう)』物勢篇に「四獣(四神のこと)は五行の気を含む」とあるように、四神自体が五行のエッセンスをもっていたとも考えられていた。従って、鏡に表現された四神は、自らの能力によって、陰陽五行の気を示しているとみることができまいか。そして、同一方向を向くキトラ古墳の四神も同様な観点から、陰陽五行の気の動きが順調に循環していることを示していると考えられる。キトラ古墳では、天文図、四神図、十二支図によって、被葬者の棺が疑似世界の中心に置かれていることを表現し、被葬者の魂を鎮めていたと考えられる。
さらに、同じく十二支図の分析から、キトラの十二支図には、中国の強い影響がみられるが、長袍の色を壁面ごとに陰陽五行説に則った各方位の色にするなど、中国でもみられない表現をとり、中国のものよりも原理原則を強調している。おそらく、四神図も同様であり、中国的な図像をもとにしながらも、全体の構図では、順調に循環する陰陽五行の気を強調した結果、青龍・白虎は朱雀側を向くという原則からはずれてしまい、壁画としては稀有な事例となったと推定される。
中国的な理念・情報をもととする中国的な事物を志向しながらも、もととなる理念・情報が見聞など直接的なものではなく、書物などを通じた間接的なものであったため、多分に理念的、そして流行おくれとなる様相は、キトラ古墳壁画についても見出すことが可能である。それがキトラ古墳壁画が描かれた当時の時代性だったのだろう。
このように考えると、キトラ古墳壁画は、藤原京造営期に描かれた可能性が高いといえよう。キトラ古墳の四神図に670年前後の特徴がみられるというのも、遣唐使の中断により、最新の図像を日本に将来させるのが困難になっていたとみれば、この年代推定と整合的である。(図録より)
■キトラ古墳壁画展■
日時:開催中(6月21日まで)
場所:奈良文化財研究所飛鳥資料館(奈良県高市郡明日香村)
料金:500円
℡:050・7105・5355