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2009/04/03

<韓国文化>韓半島に花咲いたユーラシア文化

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    「金冠飾」5世紀 大韓民国国立中央博物館

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    「瑠璃製杯」5世紀末~6世紀初 大韓民国国立慶州博物館蔵

 古代国家・新羅とユーラシアとの文化交流を考える美術展「ユーラシアの風 新羅へ」が、MIHO MUSEUM(滋賀県甲賀市)で開かれている。新羅の遺宝約40点と東西の遺宝約130点を対照することで、ユーラシア東端に栄えた新羅の黄金文明について紐解く。

 ユーラシア大陸は、人類の歴史上、様々な民族によって最も多くの国が治乱興亡をくり返した地域である。洋の東西を含み、その折衝地帯が広大な範囲にわたって形成され、現在も人類の人口の多くがこの大陸に集中している。まず文明はこの地に興り、中心と周縁の範囲を拡大させながら隣接する文化との折衝と融合をくり返した。

 このユーラシア大陸の東岸中央に、小さく鉤状に突き出た半島がある。大陸に寄り添うように点在する日本列島の一方の端に、まるで手を差し伸べるかのように張り出したこの韓半島は、大陸と日本列島を結ぶ陸橋のようにも見える。実際に、稲作や金属器などの生活文化から、仏教などの思想文化に至るまで、極めて多様な大陸文化が韓半島を経由して伝わっている。ただし、韓半島を文化伝播の架け橋と見るのは誤りである。東伝する大陸文化を確実に受け止めて消化した人と社会がそこにはあり、何よりも、どの地域にも似ない独自の文化があった。

 副葬品に西方の香り韓半島の三国時代と呼ばれる3~7世紀頃の時代には、その名の通り三つの国を中心に様々な勢力が並び立って覇を争い、それぞれに独自色豊かな文化を花開かせている。

 新羅(しらぎ、シルラ)は、この三国の一つに数えられる国である。高句麗(こうくり、コグリョ)・百済(くだら、ペクチェ)とともに半島の空間を分かち、後には他の二国を制して統一を果たす。7~10世紀の統一新羅時代に、新羅は唐王朝周辺の有力国であり続け、仏教芸術をはじめとする華々しい文化の名残を今に伝えている。その文化の結晶ともいえる新羅の都・慶州は、韓半島の東南端に位置している。

 新羅はその成立から滅亡まで一度も都を動かさず、何百年もの間ユーラシアの最も奥に居座り続けた。そのためか、情報の中心であった中国の歴史書にもなかなかその姿をあらわさず、やや停滞した社会と文化を持つ国であるかのように描写されることもあった。

 しかし、極東の国・新羅も、ユーラシア全域を巻き込む文化の撹拌の外にはいられなかった。小山のような新羅古墳から出土するきらびやかな副葬品のなかには、明らかに遙か西方の香りを伝えるものが含まれており、統一期の新羅の都では、唐から伝わった文物が当然のように使われていた。広大なユーラシアを舞台にしたダイナミックな人の動きは、文化と文物を大陸の果てまで運んだのである。ユーラシアに吹く風は、確実に新羅まで届いていた。

 慶州の町に入ると、すぐにそれとわかる新羅時代の遺跡がいくつかある。その中でも、現代の市街地の所々に見え隠れし、広々とした芝生の広場にいくつも隆起する青々とした小山は、現在の町並みと見事に一体化しており、慶州の代表的な風景となっている。今から1500年ほど前に何百と造られた小山の群は、いうまでもなく新羅人たちの墓である。長い歳月の間に地上に痕跡をとどめなくなったものもあるが、慶州市内で現在番号が付されているものだけでも150基以上を数える。

 個人の墓が権力の大きさを反映する記念碑として築造される現象は、世界各地の歴史において多く見られる。韓半島史の中では三国時代がその時期にあたり、各地で外観を意識した古墳が造られた。中でも新羅の古墳は、その大きさと副葬品の面において他地域を圧倒する。これらの大型古墳はおおよそ5~6世紀の間に集中して造られたものだが、千数百年の風雨などによる浸食に耐えて現在も築造当初からの形と大きさをよく保っており、盗掘の被害にもあっていないものが多いとされる。

 古墳は、単独で存在するものもあれば、2、3基が連接して築かれ、瓢ひさご形の外形を持つものもある。後者は夫婦や近親者が葬られた形と考えられる。大型古墳は慶州市内の特定地域にほぼ集中して分布しており、現在はそれぞれ別の名称で呼ばれているが、もともとは同一の墓域を形成していた可能性が高い。主なものには、皇ファン南ナム大デ塚チョンや天チョン馬マ塚チョンなど代表的な大型古墳を含み古墳公園(大陵苑)として管理されている皇南洞古墳群、単独墳としては最大級の規模を誇る鳳ポン凰ファン台デ古墳、始祖および初期の王族の王陵と伝えられる五陵などがある。

 100年以上にわたって慶州盆地の中心に造られ続けた巨大な古墳は、六世紀半ば以降には盆地を取り巻く山裾にその場所を移していく。この時期からの古墳の埋葬施設は、伝統的な積石木槨墳ではなく、東アジア世界で共通的に流行する横穴式石室を持つ古墳に移行する。埋葬にかかる各種経費や労働力を削減して薄葬化を進めるとともに、死者とともにあった王都は新しい姿に変わりつつあったのである。(図録より)

■ユーラシアの風 新羅へ

日時:開催中(6月7日まで)
場所:MIHO MUSEUM(滋賀県甲賀市信楽町)
時間:午前10時~午後5時
料金:大人1000円、高大生800円ほか
℡0748・82・3411