日韓文化交流基金懇談会「フィールドワークで見た韓国、日本、沖縄」が、このほど都内で開かれ、伊藤亞人・早稲田大学アジア研究機構教授が講演した。伊藤教授は1972年に韓国の珍島でフィールドワークを始め、以後今日まで韓国文化の研究を行っている。講演要旨を紹介する。
1972年、韓国の珍島にわたり本格的なフィールドワークを始め、現在まで続けている。72年当時、韓国研究を行う人は歴史研究や語学研究を除けば非常に少なかった、もっとはっきり言えば研究を避ける傾向があった。
さて日韓国交回復から間もないその当時、珍島の村人にとって、私は解放後初めて見る日本の若者だった。とても珍しがられ、大切にしてくれた。方言、風習、食生活など、日々のすべてが私にとって異文化体験であり、刺激に満ちていた。村には独特な民俗文化の伝統に加えて、日本の頼母子講に当たる相互扶助の「契」が活発にみられ、また儒教的な教育の場であった書堂の建物も残っていた。
韓国人の友人が調査をはじめあらゆる相談に乗ってくれた。その友人は後に郷土史研究家として知られるようになったが、一人でも全面的な協力者を得られたのは、研究の大きな助けになり、いつも励まされてきた。
72年10月に戒厳令が出されたが、テレビが普及せずラジオを聞く人も少ない村では、誰も戒厳令が出たことを知らなかった。たまたま日本の放送を聞いていた私が、戒厳令を村人に知らせる状況だった。この時の村の様子などは後日、写真とともに『韓国夢幻』という本にまとめた。
韓国は文化人類学的に見てとてもユニークな国だ。韓国は民主化と経済発展を成し遂げ、高度に資本主義化した社会である。世界トップの大学進学率を誇りながらも、一方では父系血縁の原理を、また儒教社会の伝統を色濃く留めている。特に社会規範としての儒教の影響が強く残っている。書堂のほかにも郷校や書院などの儒教的教育機関も各地に残っているが、これは儒教を生んだ中国にもないことだ。
また、均質性をこれほど保っている民族社会も珍しい。中国も欧州各国も国内にさまざまな少数民族を抱えているが、朝鮮半島には少数民族といえるものはほとんど見られない。均質性の高い反面、それゆえに一極集中の激しい競争社会でもあって、それを避けて海外に移住する人が急増している。
「ディアスポラ」とは本来は人々が故郷から追われて各地に拡散していく状況を指す言葉だが、韓国は経済発展をとげ民主化を遂げたにもかかわらず、郷里に定着するよりも海外への移住を目指す人が後を絶たない。ニューオーリンズのような米国南部や東南アジア、さらにはアフリカの都市にさえコリアタウンがある。韓国人の海外移住がなぜこれほど盛んなのか、研究テーマである。また韓国ではキリスト教信者人口の四分の一に達したが、日本では1%にも満たない。なぜ韓国でキリスト教信者がこれほど増えたのか、世界的にも関心を持たれている。
さて、韓国は論理・観念的体系性を大切にするが、日本はそうした体系よりも、民俗慣行・民俗知識と経験・実践を大切にする国だ。韓国では抽象的な言語能力が大切にされ、論理的説得力を備えた指導者が歓迎される。しかしその半面、実践や経験がおろそかにされる傾向がある。中国も同じで、要するに指導者が論理性・倫理性によって社会をリードするのが東アジアの文人社会の伝統であった。その点でも、日本の方が特殊例で、これは日本が東アジア文明・文人社会の体系的世界の周辺部にあったことを意味する。民俗信仰や知識、慣行、経験が優先されるのは、文明の周辺部に位置した地域にはよく見られた現象だ。
日本は列島に位置することで、そうした民俗文化の伝統を温存してきた。そこが同じ東アジアにあっても、韓国や中国の論理や理念を重視する人々にはわかりにくいのかもしれない。この違いを自覚することは、両者の相互理解に役立つはずだ。
沖縄は独自の民族文化を基盤とした王国だったが日本に併合された。そのため、地域社会に根ざした研究体制、人材養成の伝統が弱く、それがいまも尾を引いている。その一方で、民俗信仰の伝統に加えて、古典音楽・琉球舞踊などの宮廷文化を民衆が引継ぎ発展させてきた点は、世界的にみてもたいへんユニークだ。沖縄の人々の愛郷心は強く、友人関係も濃密で、韓国とは対照的に定着性がたいへん高い。
最後に、東アジアにおける日本の国際貢献を考えるためにも、北朝鮮との関係をどうするかが課題となろう。といっても、国家レベルの問題ではなく、北の人々がどのような生活をおくり、何を求めているのか、それを研究することが、日本との関係づくり、東アジア地域社会の平和に貢献するものと確信しており、それが私の現在の研究課題になっている。
人類学の研究も交流の一環であり、市民交流に寄与しなければならない。東アジアの平和に資する人類学研究に、今後も取り組んでいきたい。