ここから本文です

2009/08/07

<韓国文化>近代化の在り方を議論

  • 近代化の在り方を議論①

    まち・せんじゅろう 1969年石川県生まれ。二松学舎大学文学部卒。専攻は日本漢文学史・日本医学史。現在、二松学舎大学・准教授。

  • 近代化の在り方を議論②

    崔成大と三島中州の筆談を記録した巻物

  • 近代化の在り方を議論③

    三島中州(みしまちゅうしゅう) 1830年、現在の岡山県倉敷市に生まれる。13歳で山田方谷の私塾に入る。明治維新後の1872年、司法省に出仕。1877年、漢学塾二松学舎を東京・麹町区(現在の千代田区三番町)に創立。1881年東京大学教授となる。1919年死去。

 1881年、日本を視察に訪れた「朝士視察団」随行員の一人であった崔成大(チェ・ソンデ)が、日本の二松学舎大学を創立した漢学者、三島中州と漢文で筆談した記録(本紙2008年9月26日号既報)巻物が、町泉寿郎・二松学舎大学准教授により全文翻訳された。会談内容とその意義について、町准教授に文章を寄せてもらった。

 三島中洲は、1876(明治10年)年10月、自邸に漢学塾を開き、1878年2月からは東京帝国大学に出講して漢文を講じていた。1881年7月9日、東京帝国大学の卒業式を終えて帰宅した中洲は、夕刻に麹町壱番町の自邸(現在の二松学舎大学がある千代田区三番町)に来日中の崔成大と、旧友川北梅山を招いて、筆談を行った。

 この時の筆談記録が、三島中洲自身の手によって13メートルを超える巻物に仕立てられて伝えられ(学校法人二松学舎所蔵)、各文頭には「第一 崔成大」、「第二 三島毅」、「五十七 川北長顒」のように筆談の進行順と筆者が中洲自身の朱筆で記され整理されている。昨年、この巻物の存在が我々研究者の知るところとなり、今回、その全文を翻刻・注釈・現代語訳する機会があった。

 崔成大は、朝士視察団(明治14年4月11日長崎着、同7月28日神戸発)の一員厳世永(オム・セヨン)の随員として来日した朝鮮王朝の武官であり、彼らは主に司法制度の視察に従事した。崔成大はこの時までに三島中洲と何度か面識をもち、中洲は崔に酒肴を贈るなど個人的な交流があった。

 川北梅山(1822~1905、名は長顒)は旧津藩士で、中洲が津藩儒の斎藤拙堂に従学した時からの旧知である。

 筆談は、初め中洲と崔の二人によって起筆され、冒頭部分は崔と中洲がそれぞれの問いと答えをそれぞれの用箋に書いていった。

 内容の上で注目すべきことを挙例すれば、まず「貴国では郡県制度を古くからとっておられますが、官員は依然として世禄制なのですか?」という朝鮮の政治体制に関する中洲の質問からはじまって、続いて朝鮮の正史としては何があるか、それを読んでみたいとの中洲の問いに、崔が15世紀末の『国朝宝鑑』をあげ、しかし外国人が読むことは以前の法律では禁じられていたので、即答できないと答えている。中洲の相手国の事情に関する情報収集意欲が窺える。また、中洲は近刊の黄遵憲(ファン・ジュンホン)『日本雑事詩』を話題にして、旧幕時代と違い現在の日本では西洋の政治制度に倣って政治体制や風俗に関する自由な言論を許していると述べている。但し、『日本雑事詩』の記述内容についてはさほど高い評価を与えていない。

 一方、中洲からの漢訳して欲しい日本語文献があったら漢訳者を紹介しようとの申し出に対して、崔はこの筆談以前に依頼した漢訳「治罪法」(ボアソナード原案起草にかかる刑事訴訟法)の入手を中洲に念押している。このことから、崔と中洲の接点が、日本の法律制度に関するものであったことが解る。

 中洲と崔の議論が最も熱を帯びたのは、中洲が「取長捨短」の説という東洋西洋の兼採論を説いたのに対して、崔が反対した時であった。中洲は、「道徳においては周公・孔子を重んずることは無論だが、ただ技術においては西洋の長所をとれば公平であろう」という一種の「東洋道徳、西洋芸術」論から、さらに一歩進めて、「(中国)古代の帝王が狩猟・漁撈や農耕のための道具を製したのは、人民を養い育てるためであり、西洋人が機械を作って生活の道具としたのは、古代の聖人の遺志に従ったものである。私が西洋の機械を使って生活の助けとするのも、同じく聖人の遺志に適う」と述べた。崔はこれに対して、「いったい道徳を捨て技術を尊崇して政治を行うなどという道理があるものか。」、「「長」「短」は、もちろん当方がどのように選択するかにあるが、どうして手本を西洋人に求めるのか?」と異を唱えた。

 これに対して中洲は、「我が国の十数年前の議論は、みな先生と一緒であった。明治初年の政治は、改革があまりに過激で、そのまま西洋の制度に心酔し万事を模倣してしまった。今では少し後悔しており、これが漢学の再興してきた理由である。」といって、明治10年代の漢学再興にいたるまでの近代化過程を述べたが、崔はさらに「貴国が少し後悔されたのは、まさしく我が国が歩むべき前例というべきだ。」と応じている。

 本筆談録は、このように彼らの考え方を知るに足る充実した応酬が展開しており、日本国内においては明治14年の政変を目前にした時期にあたり、中洲の議論は明治思想史上の史料として一定の価値をもつと思われるし、朝鮮近代化にあたる朝士視察団の人々を知る上でも、崔の見解は注目されるところである。

 この種の筆談録はまだまだ埋もれている資料が多いので、これからも資料発掘に努め、より多くの人々の注意を喚起したいと考えている。