福岡アジア美術館開館10周年記念「第4回福岡アジア美術トリエンナーレ2009」が、9月5日から11月23日まで、同美術館と周辺地域で開催される。同美術館学芸員の黒田雷児さんに、同展の意義について文章を寄せてもらった。
福岡アジア美術館(以下「アジ美」)は今年で開館10周年になる。複合ビルの2階分にある中規模のこの美術館がここ10年国内外からの注目を集めてきた。アジア近現代の美術に焦点を絞りその独自性を探求し、かつ、21カ国・地域という広範なアジア地域をカバーする、世界にも比類のない独自性のためである。
福岡市美術館時代から収集され現時点で2361点の所蔵品は、国内外の重要美術館に貸し出されており、美術や歴史の研究者には学術的価値を評価されている。また、美術を通じた市民交流を重視する方針から、これまでに長期間招聘した美術作家は48人、研究者は12人、そのほか展覧会・イベント・研究などのために滞在したアジアの美術関係者を加えれば122人、これらの招聘者が行ったワークショップは132回、講演会等は124回、パフォーマンスは21回におよぶ。10年間の入場者数は240万人になる。
アジ美の調査力・資料力・イベント企画力の結集といえる「福岡アジア美術トリエンナーレ」は、今年4回目をむかえる。モンゴル、バングラデシュ、ラオス、カンボジアなどからも作家を選んでおり、ここ10年の間に中国の後を追うように国際展の常連化したインドの作家とともに、日本人のアジア観を補完する役割をしてきた。だから日韓中の美術の共通性や同質性というのはここではあまり意味をもたない。むしろビデオ・アートのような、それぞれの文化的伝統から最も自由なはずのメディアにおいても、共通性よりは差異のほうが大きいくらいだ。
1980年代初頭、日本以外のアジアで、「現代美術」があるのは韓国しかないと思われていた。中国では、共産党政府公認のアカデミックな写実技法による油彩画しかないとされていた。しかし今や、中国作家のいない国際美術展というのは考えられない。その強力なコンセプト、スペクタクル性、暴力性は、日本も韓国も太刀打ちできないほどのインパクトを与え、中国作品の市場価格は高騰した。日本では村上隆のようなネオ・ポップ作家が国際的認知度でも市場価格でもひとり勝ちしているように見える。それに対し、80年代、いやイー・ブルやチェ・ジョンファが輝いていた90年代と比べても、韓国美術の国際的地位は相対的に低下したように思える。
近年のアート・バブルに翻弄されることのない誠意ある仕事を続けている多くの韓国作家に私は出会ってきた。最近ある図録に書いたように、日本美術と韓国美術の最大の差異は、目の前の現実にある政治や社会の問題にかかわり、さらにその現実を変革しようとした「民衆美術」の有無だと思うし、沖縄の比嘉豊光の写真に通じるような、米軍基地問題などを扱う政治的アクティビズムやローカルな社会問題への責任感が韓国の作家には生きているのだ。
ただし今回のトリエンナーレでは、あえて「民衆美術」の系譜とは異なる作家を紹介する。ニューヨークを拠点に世界中で活躍するキムスージャ、釜山で非営利美術スペースを運営しながらビデオや写真の実験を続けてきたキム・ソンヨン、ソウル在住で海外からも注目を集め出したアン・ジョンジュという3世代のビデオ作品がそろうことになった。キム・ソンヨン作品には都市開発への疑義が含まれてはいるものの、インドの洗濯場やスラムを題材にしたキムスージャの映像はなんの物語性もなく流れ去るように見え、アン・ジョンジュによる、天性の映像と音のリズム感を生かして小学校の校舎をとりこわす場面を再構成した作品は、もとの映像から意味をはぎとることで成立している。
この3人は、韓国でも市場で人気を集めるポップな絵画や、伝統美術を参照しただけの内容空疎な絵画の流行からは距離をおいたストイシズム(禁欲性)においても共通している。現実に過度に手を加えたり声高に主張をしたりすることのない、静観的で受動的にも見える姿勢は、目立ちたがりが勝つ国際展では不利ではある。しかし、アン・ジョンジュが、日常的な現実のなかにある「私」と「あなた」の共有不可能な知覚を扱うことで単なる感覚的な遊びに堕していないように、一見もの静かなこれら韓国作家の眼差しのなかには、過ぎ去っていく歴史を含めた社会の複雑さと誠実に向き合う意志がこめられていないだろうか。「第4回福岡アジア美術トリエンナーレ」が、そしてアジ美のこれまでとこれからの活動が、アジア美術の底力を日本や世界の人々に知ってもらう機会になればと思う。
■福岡アジア美術トリエンナーレ■
日程:9月5日~11月23日
場所:福岡アジア美術館
(福岡県福岡市博多区)
料金:一般1000円
電話:092・263・1100