韓国近代彫刻の先駆者として高く評価されている権鎮圭(クォン・ジンギュ、1922―1973)の回顧展が、日本では東京国立近代美術館(10月10日―12月6日)と武蔵野美術大学美術資料図書館(10月19日―12月5日)の2会場で、韓国では国立現代美術館徳寿宮美術館(12月22日―2010年2月28日)で開催される。権鎮圭は、1950年代に武蔵野美術大学の前身である武蔵野美術学校で学び、二科展で受賞するなど、日本の彫刻界と非常に関係が深い作家である。リアリズムを基調としつつ孤高の精神性をたたえたその作品は、韓国では教科書にも載っているが、日本ではまだほとんど知られていない。今回の展覧会は、権鎮圭の彫刻の全貌を日本で紹介する初めての機会となる。
権鎮圭は1922年、現在は北朝鮮の咸鏡南道(ハムギョンナムド)咸興(ハムン)市に生まれ、1948年(26歳)に来日し、翌49年、武蔵野美術大学の前身である武蔵野美術学校の彫刻科に入学、ブールデル直伝の写実的で剛健な構築性を重んじる同校教授・清水多嘉示(しみず・たかし)のもとで研鑽を積んだ。1952年、在学中に二科展に初入選し、翌年には、同展に出品した《騎士》《馬首》など石彫3点で特待を受賞している。日本の彫刻界は、まだ大学を出たばかりのこの若い彫刻家の抜きん出た才能をいち早く認め、栄えある賞を授与したのだった。
59年に帰国した権鎮圭は、ソウル市東仙洞(トンソンドン)のアトリエを設けて制作を続けた。翌年からソウル大学校工科大学建築科で非常勤講師として教えはじめ(73年まで)、65年には当時の韓国では珍しかった彫刻の個展(秀画廊主催)を新聞会館で開催するなど、少数とはいえ良き理解者、支持者に恵まれたが、妥協を許さぬ求道者的資質もあって、韓国の美術界では総じて孤立した存在だった。そうした中、68年に東京の日本橋画廊で開かれた個展には、テラコッタの女性胸像をはじめとして30余点が出品され、「読売新聞」「東京新聞」等に展覧会評が載るなど、大きな成果をおさめた。71年に3度目の個展を明東画廊(ソウル)で開催。しかしその頃から体調不良にみまわれ、73年高麗大学校に寄贈した自作3点を同大学博物館で見届けたのち、「人生は空、破滅」のことばを遺して自ら命を絶った。
権鎮圭は、自らの死をもって「芸術に対する純粋な情熱」「内的なリアリズムの確立」に向けた最後のメッセージを遺したともいえる。1974年、明東画廊で開かれた一周忌の遺作展を機に再評価がはじまり、翌年には『韓国現代美術代表作家100人選集』の一冊として初めての作品集が公刊された。88年には15周忌を記念して湖巌(ホアム)ギャラリーで大規模な回顧展が開催されたほか、98年にはソウルのガナ・アートセンター、2003年には仁寺(インサ)アートセンターで回顧展が開かれ、その代表作は韓国国立現代美術館、高麗大学校、サムスン美術館、ハイト文化財団などに所蔵されている。
本展は、戦後間もない日本で彫刻の基礎を学んだのち彫刻家として類いまれなる足跡を遺した権鎮圭の全貌を紹介する初めての回顧展であり、すでに始まった東京国立近代美術館では第38回二科展で特待を受賞した石彫《騎士》(53年)や、68年の個展(日本橋画廊)の際に当館に寄贈された《志媛》(67年)《春葉尼》(67年)を中心に、精選した彫刻作品(テラコッタ・レリーフを含む)約30点と水彩・素描などを展示している。
権鎮圭の彫刻は、技法的には石彫・ブロンズ・木彫・テラコッタ・乾漆など多岐にわたっている。また早くから先史時代のアルカイックな彫像に傾倒するなどの多面性を示した。
武蔵美会場では、同校で学んだ日本時代(1948―1959年)の初期作から、60年代のテラコッタや女性像・自塑像を経て、最晩年の仏像まで、全貌を彫刻作品約100点と水彩・素描ほかによって紹介する。また、参考資料として、権鎮圭の恩師である清水多嘉示の彫刻作品(約7点)を併せて展示する。23、24の両日には武蔵野美術大学で国際シンポジウム「権鎮圭の作品世界」が開かれる。
朴亨國(パク・ヒョング)・武蔵野美術大学教授は、「権鎮圭は韓国の教科書に載っている唯一の彫刻家だ。現在約250点の作品が残されており、そのうちの半分が日本で今回紹介されることになる。プライドが高く、孤高の人生を貫いた人だった。その作品世界をぜひ知ってほしい」と話す。