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2010/02/19

<韓国文化>王族専用だった白磁の器

  • 王族専用だった白磁の器①

                   鉄砂龍文壺 17世紀

  • 王族専用だった白磁の器②

                   白磁大壺 18世紀

 高麗美術館は、在日の故鄭詔文氏(チョン・ジョムン、1918―89年)が収集した朝鮮の美術工芸品を展示する美術館である。「コレクション名品展」は、多岐に渡る収蔵品の中から逸品の数々を選りすぐって展示している。2月20日から4月4日までは「朝鮮の壺」と題し、同館コレクションで特に人気の高い「壺」を中心に朝鮮の歴史と民俗を紹介する。

 古今東西を問わず、私たちの暮らしに役立てられてきた壺。その歴史は古く、紀元前一万年前頃から、人は土で道具を作る技術を覚えた。

 朝鮮半島では、今から約八千年前の新石器時代に櫛目文土器が本格的に作られ始め、狩猟や漁労、採集の定着と人の定住化により様々な土器が誕生した。やがて稲作が始まるとともにその需要は高まり、地域ごとに特徴ある器形が登場、自然環境や生活様式の変化に応じた土器は食糧を保管し、調理することを可能にした。高句麗や百済、新羅、伽倻では高台付きの壺を作り、副葬品としてこれらを埋葬する習慣があった。各地で発達した技術は日本列島にも及び、韓式土器として現在でも主要遺跡から出土している。

 統一新羅や高麗ではさらなる技術革新が起こり、土器から陶器へ、そして磁器へと躍進した。その変化の根底にあったのは中国大陸からの先進技術の到来である。高麗は中国・越窯で製作された磁器にあこがれを抱き、その技術を導入することで中部から西南部地方にかけて窯を築き、その製作を成功させた。高麗はこのとき、ガラス質の釉薬(ゆうやく)の奥に未知数の輝きを生み出したのである。人々の趣向に叶った様々な造形の青磁が次々に生産され、その名声は中国大陸や周辺諸国にまで届いた。

 高麗青磁のものでは蓋付きの小壺や整髪用の油壺など、人々の手に収まる小品が多く現存している。素文のものは少なく、白土や赤土を文様に埋めた「象嵌青磁」、鉄顔料で文様を描く「鉄絵青磁」が多い。道具としてのみならず、鑑賞にも値する壺が製作されたことが当時の特徴である。

 その後の社会情勢の変化に伴い、扶安(プアン)や康津(カンジン)を中心に栄えた青磁窯は外敵からの攻撃などによって廃れ、技術低下と窯業体制の崩壊は陶磁生産に打撃を与えた。しかし15世紀には、新体制である朝鮮王朝により建て直しが図られ、陶磁生産に復活の兆しが見え始める。

 朝鮮王朝は朱子学(儒教)を国家の統治理念に定め、白磁を国王専用の器とした。荒廃した窯業体制を整えるため、京畿道広州(キョンギド・クァンジュ)に官窯を設置。さらに各官庁が管理する窯が地方に増え、朝鮮の窯業は新たなスタートを切った。

 生産されたのは粉青沙器と白磁が主である。粉青沙器は青磁とほぼ同質の土を使い、表面は白土による装飾が施された独特の焼き物である。朝鮮初期にはこの粉青沙器の壺が多く作られている。

 当時、胎児のへその緒などを納めて埋葬する風習があり、胎壺と呼ばれる入れ子式の壺が王族や貴族階級によって使用された。また壺や瓶、皿など普段使いの器をミニチュア化させた明器が、身分の高い者の墓から出土している。当時の白磁は王族や宮廷使用に限られていたため、その質は大変よく、一般人にとって白磁は憧れの象徴でもあった。

 粉青沙器は停滞し、やがて全国的に白磁が主流となった。壺やたらい、瓶などの需要はそれまで以上に膨らみ、もはや暮らしのなかで欠かせないものとなっていた。

 朝鮮時代の特徴として、17世紀頃、突如として何の装飾もない豊満な造形の白磁壺が登場する。「満月壺」と称されるそれらは、朝鮮末期まで塩辛などを作る際に使用された実用品であるが、穏やかで静かなその造形は朝鮮白磁の白眉といえる。

 同展では高麗・朝鮮時代の壺を通じて、その用途や文様に込められた意味を探り、当時の暮らしや風習などについて詳しく紹介している。


■高麗美術館名品展「朝鮮の壺」■

日時:2月20日~4月4日
場所:高麗美術館
   (京都市北区紫竹上岸町15)
料金:一般500円、大高生400円
電話:075・491・1192
 *3月13日午後1時30分から伝統楽器のミニコンサートあり