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2010/06/04

<韓国文化>世界的バオリニスト・鄭京和が5年ぶり公演

  • 世界的バオリニスト・鄭京和が5年ぶり公演①

    ふじい・こうき 1967年生まれ。京都市立芸術大学大学院(修士課程)修了。日韓音楽関係史を研究。現在、島根大学教育学部准教授。博士(芸術文化学:大阪芸術大学)。

  • 世界的バオリニスト・鄭京和が5年ぶり公演②

             5年ぶりに復活公演を果たした鄭京和

 指の故障で音楽活動を休止していた韓国の人気バイオリニスト、鄭京和(チョン・ギョンファ)が5年ぶりに復活公演を果たした。その演奏会の様子を、藤井浩基・島根大学准教授に報告してもらった。

 2010年5月4日、午後8時を前にして、ソウルはまだうっすらと明るく、市内南部にある「芸術の殿堂」は、初夏の日脚を楽しむ市民で賑わっていた。なかでもコンサートホールは、ウラディーミル・アシュケナージ指揮フィルハーモニア管弦楽団の来韓公演(二日目)に、バイオリニスト鄭京和が協演するというので熱気に包まれていた。05年9月に手指を痛めて以来、演奏活動を休止していた鄭京和の復帰演奏会となる。会場には、復調を見守る期待と緊張感が交錯した、独特の雰囲気が漂っていた。

 鄭京和にとって、英国の名門フィルハーモニア管弦楽団との協演はこれまでも数多い。また、鄭京和とアシュケナージは、ともに英国のレコード会社デッカの看板アーティストであった。記念すべき復帰公演には申し分ない協演者である。

 ベートーヴェンの「コリオラン序曲」の後、鄭京和はブラームスのバイオリン協奏曲のソリストとして登場した。ひときわ大きな拍手で迎える聴衆に、満面の笑顔で応じる表情には、再び舞台に立つことができた喜びがあふれていた。楽章前には、これまでよりも入念に調弦を行なった。第1楽章が始まり、長い序奏の後、独奏バイオリンが斬り込むように入ってきて、多くの聴衆が安堵したに違いない。

 ふり返れば、05年9月23日、ソウルの世宗文化会館での演奏会が、活動休止の始まりであった。同夜は、ワレリー・ゲルギエフ指揮キーロフ歌劇場管弦楽団の来韓公演で、ブルッフのバイオリン協奏曲第1番の協演が予定されていた。場内アナウンスが入り、前半に組まれていた同曲が最後に演奏されるという。続いて予定にない曲が追加で演奏された。

 しかし、いつまでたっても鄭京和は出てこない。数日前には、鄭京和が韓国のテレビ番組に出演したり、記者会見の模様が報道されたりしていただけに、本命のソリストが出てこない異例の演奏会に客席はざわめいた。終演時間が近づいた頃、ゲルギエフに伴われて、平服の鄭京和が舞台に現れた。「リハーサルで手指が痛みを感じ、応急処置を施し、曲順を変えてギリギリまで回復を待っていました。でも皆様に満足いく演奏をお届けできません。本当に申し訳ありません。」と神妙な面持ちで挨拶すると、深々と頭を下げ、舞台を降りた。

 この後、活動休止状態に入り、08年からは母校ジュリアード音楽院で教鞭をとり始める。この頃からファンの間では、引退説も噂されはじめた。演奏に対する妥協のない姿勢は、50年に及ぶキャリアのなかで、身体に無理を強いていたのだろう。同年の暮れ、私が送った見舞状に返事が届いた。そこには「週に2度通院し、つらい治療を続けています」とあり、演奏会があのように終わったことの無念さが綴られていた。

 それだけに満を持してのぞんだ5年ぶりの舞台は、復活を賭けた大事な演奏会であった。基本的に鄭京和の演奏の本質はまったく変わっていなかった。重心の移動やフレーズ毎に変化する身体や楽器の向きも以前のままだった。ただ、自身の調子を確かめながら、丁寧に、慎重に弾き込んでいく。一度リセットして、謙虚に再構築したと言った方が近いだろうか。指揮とオーケストラの好演も手伝って、構成力がしっかりし、均整のとれたブラームスに仕上がっていた。

 カーテンコールは延々と続いた。回復したばかりの鄭京和にアンコールを求めるつもりはなかったが、5年前を思い出しながら、やはり私も拍手を止めることはできなかった。そしてアシュケナージにうながされ、第3楽章を再び演奏した。無事、全楽章を通した安堵と自信からか、本領を発揮した躍動的な演奏が展開された。それでも拍手はやまない。すでにブラームスのステージだけで1時間以上経過していた。そして、バッハの「無伴奏パルティータ第2番」からサラバンドが演奏された。会場の熱気を冷ますかのように、ホールの隅々へおごそかに音が届けられた。

 後半のベートーヴェンの交響曲第4番がアンコールのように聴こえたのは、私だけではなかっただろう。アシュケナージも今夜は引き立て役に徹し、何度かカーテンコールに応えると、サッと楽団員に終演を促し、小走りに舞台袖へと消えた。これもやはりステージを知り尽くした巨匠の粋な演出であった。

 こうして鄭京和は見事に復活を遂げた。現役はまだまだ続きそうであるし、心からそう願いたい。


  ふじい・こうき 1967年生まれ。京都市立芸術大学大学院(修士課程)修了。日韓音楽関係史を研究。現在、島根大学教育学部准教授。博士(芸術文化大学:大阪芸術大学)。