韓国の女性現代作家、尹錫男さんがこのほど来日し、「私はなぜアートを作るのか」のタイトルで、東京・早稲田にあるアクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(WAM)で講演した。「平和を願って描き続ける」と語る尹さんの講演要旨を紹介する。
私は1979年4月から絵を描き始めた。
当時、私の絵のテーマは「母(オモニ)」だった。モデルも私の母だった。何よりもまず、母から出発しなければならないと固く思っていた。
初の個展を開いたのは1982年。ほとんどがそれまで描きためてきた、母を描いた絵だった。働く母の手や海辺で貝を採る母などだ。その当時、美術界はいわゆる”抽象表現”が主流だった。だから抽象性を持っていながらも具象性がある私の個展は、韓国の画壇の注目を集めた。
この個展がきっかけとなって、抽象表現主義に意味を求めていた他のアーティストたちとの交流が始まった。そして「人間」展と名付けた展示を実施して、その後の数年間、活動をともにした。
キム・インスン、キム・ジンスクの女性画家に出会ったが、これは私個人にとっていうまでもなく、韓国女性美術にとっても大きな収穫だったのではないかと、自信を持って言える。
私たち3人は意気投合して、共同アトリエを構えて一緒に制作することになった。それから3年後、「10月会(モイム)」という会を結成して、ソウルのクァヌン画廊で、「10月会」展を開催した。モイムとは集まりの意味だ。当時、韓国では、民主化を求めてさまざまな抵抗運動があり、そこから名前をとって、”女性アーティストとしてのアイデンティティーの模索や思い、葛藤は充分革命的ではないか”という意味を込めた。
86年当時、”タリム・マダン・ミン”という画廊があった。”タリム“は絵、”マダン”は広場、という意味で、”ミン”は民衆の”民”だから、”絵の広場民”という意味になる。その画廊で第2回〈10月会〉の「半分からひとつへ」展を開催した。
キム・ジンスクは、女性の現実を分析した。キム・インスンは、女性たちの社会認識を問う作品を制作した。私は、自らが所属している中産階級の女性のアイデンティティーヘの問いを表現した。当時〈民衆美術〉の中に〈女性分科〉という分科があり、その「民衆芸術」の中の〈女性美術研究会〉で毎年、年に一回、女性の問題を問う展示をすることに決めた。
キム・ジンスクと私は〈もうひとつの文化〉との出会いをきっかけに、フェミニズム理論を本格的に勉強するようになった。それ以来、美術とフェミニズムの融合の模索を続けている。この模索は、美術の現実参与、現実に対して美術が参加して発言することを目指し、現実の問題や矛盾にコミットする作品を制作するためのパワーを与えてくれた。
1994年、美術史家でキュレーターであり、美術館の館長などを務めているキム・ホンヒが企画した「女性、その差異と力、女性的美術と女性主義美術」展を開催した。この展示は「女性と現実」展とは異なる性格を持っていたといえる。
「女性、その差異と力」展は、10年後に全く同じメンバーで第2回展を開催した。99年には「女性、その差異と力」展の続きとして、後を継ぐかたちではないが、女性文化芸術企画が企画した「99女性美術祭 パッチたちのパレード」展がソウルのアートセンターで行われた。その後3回展まで続き、東アジア、環太平洋地域へとエリアを広げていったが、3回で終わった。
93年の個展「母(オモニ)の日」展以来、母、女性の物語をテーマに個展を続けてきた。97年「光の種まき」展、「伸びる」展、それから2008年「1025――人とともに、あるいはともにする人もなく」というタイトルの犬を作った作品展、というように個展を続けてきた。
美術作品の制作とは、アーティストが生きている中で得るパワーとか表現が、一体となって出てくるものだと思う。私の身体、私の細胞ひとつひとつに記録され、刻印されて保存されていたはずの物語を引きずり出して、自分の想像力で生まれ変わらせたときに、私はある種のカタルシスを覚える。このような小さいカタルシスの断片が集まって”私”という存在を作っているのだろう。
このミュージアムは平和を目指すミュージアムだとうかがった。
反戦、平和の構築をモットーに生きている私にとって、今回の招きは言葉では表せない思いがけない喜びだった。私たちは、いつになったら戦争のない時代を生きることができるのだろうか。その問いかけを皆さんと一緒に行う時に、私は嬉しさと悲しさで胸が締めつけられる思いだ。