「2010韓国修学旅行感想文・写真コンクール」(韓国観光公社主催)の結果が、このほど発表された。感想文特賞の「伝えてゆく」(抜粋)と、写真の特賞・金賞を紹介する。
◆特 賞 「伝えてゆく」 山梨英和高校2年 望月 麗さん◆
現在、日本と韓国は、良い友好関係を保ち、切磋琢磨しあう関係にある。その韓国への修学旅行の意義の一つが「加害者として戦争を考える」ということは驚くべきことだった。
私はそれまで、日本は第二次世界大戦で負けた被害国、沖縄地上戦、原子爆弾といった「祖国の悲しみ」にのみ気をとられ、日本が隣国を「支配」していたという事実をあいまいに捉えていた。支配とは何なのだろう。もっとも、私達が「加害者」として戦争を見つめる機会自体が少ないのではないだろうか。その証に、12月8日が何の日であるかを知る日本人は少ない。
私達が韓国を旅したのは、3月2日からの5日間、1日の独立記念日に掲げられたという太極旗が各地で見られた。地形は異なるが、人々や町の雰囲気は日本と似ていると感じた。国立慶州博物館では、日本と韓国の歴史的つながりの深さ、同じ祖先をもつ民族であることも確信できた。しかし、両民族には「支配」を核とした歴史があることも認めなければならなかった。
堤岩教会では、かつて日本軍による虐殺事件が起きた。堤岩里の男性を教会に閉じ込め焼き打ちにし、民家に押し入り死体までを引き裂かんとする日本人の姿を、現代を生きる日本人は知っているのだろうか。事前学習で学んではいた。しかし、現地でうかがったお話、悲惨な写真や文献は、私には信じ難いことばかりであり、案内の方の一言は、私達の立場を再考すべきと痛感した。
「今、私たち日本人と仲良しデス。みなさん、許してあげマショカ?」。許す、許されるという関係にある。それは、決して癒えない歴史の溝であり、ひたすらに悲しいことだった。
重い心を抱えながらも、ペンパルと出会う日が来た。梨花女子高校は、独立運動の先頭に立った少女、「柳寛順」の母校であった。
ペンパルは私という日本人を受け入れてくれるのだろうか、両国の溝を知りながら楽しい顔をして良いのだろうか。不安ばかりがつのる私に、ペンパルはただ、温かなハグだけで答えてくれた。
私達は、手をとりソウルの街を歩いた。頼れるのは英語のみ、彼女は携帯電話を、私は電子辞書を用いて、なんとか会話が成立したが、それもまた楽しい思い出となった。
私がときどきハングルを使うと、彼女も日本語を披露してくれた。現在の韓国では、日本語を学ぶ学生が多いそうだ。敵としてではなく、友人として韓国と関われる現代を嬉しく思った。ペンパルとは、今でも連絡を取り合っている。
日本へ帰ってきてから、「韓国の道路は広かったのでは」という質問を受けた。ソウル市内は賑やかで、広い道路には多くの車が往来していた。しかし、その現実は「戦争になった際、道路を戦闘機の滑走路として使用するため」なのだという。修学旅行の後に分かったことも多くある。だが、こうして今、韓国に関心があるのは、修学旅行をしたから、韓国に友人がいるからだ。
最近、韓国と北朝鮮の関係が多く報道されるようになった。「また朝鮮戦争が始まるのか」という声が聞こえることもある。しかし、本当に両国は戦争を望んでいるのだろうか。
修学旅行は終わったが、平和を求める旅は始まったばかりだ。韓国でふれた優しさは、確かに、今でも私の心に暖かく宿っている。これからの私に必要なのは、絶えず学んでいくこと、そして伝えていくことだ。過ごした時間を経験に、感動を言葉に変え、「伝える人」として生きていきたい。