シンポジウム「韓国の映像文化と女性」がこのほど韓国文化院(東京・四谷)で開かれ、黄美謡鳥(ファン・ミヨジョ)・ソウル国際女性映画祭プログラマーが、「最近の韓国映画の女性監督、女性映画人の現況と女性主義的イシュー」と題して報告した。同報告を要約・紹介する。
韓国最初の女性監督は『未亡人』(1955年)を演出した朴南玉監督である。『未亡人』は戦争未亡人を通じて伝統と近代の分かれ道で女性セクシャルティとの関係に対する欲望を洗練された演出で表現している。
59年『有情無情』のシナリオを書き、韓国女性初のシナリオ作家になったホン・ウンウォンは62年に自作シナリオである『女判事』の演出を引き受け、韓国映画史上では二人目の女性監督になる。監督になるまで彼女は約100本の作品においてスクリプター、助監督を務めたが、演出は3作品のみに過ぎず、以後シナリオ作家としてのみ活動するようになる。
傑出した女優の崔銀姫は64年『ミンミョヌリ - 許婚』の演出と主演を同時に行いながら、三人目の韓国女性監督になる。以後、彼女は2本の作品の演出をした。
70年代に女性監督の命脈を引き継いだのはファン・ヘミ監督である。『初経験』(70年)で監督デビュー以後、『悲しい花びらが散る時』(71)、『関係』(72)を続けて演出する。この作品は現在すべて消失し確認することができないが、彼女は女性的な自意識が強く、モダンスタイルな作品を作ったとして知られている。80年代は李美礼監督が84年『泥沼から救った私の娘』(84)でデビューし、6本の作品を作る。
80年代末まで女性監督は言葉通り5本の指で数えることができるほど数が少なく、その少数の女性たちの中でも持続的な作品活動をしたケースはない。
しかし、90年代は『3人の友達』(96)の林順禮監督、『美術館の隣の動物園』(98)の李廷香監督、『ラブラブ』(98)のイ・ソグン監督がデビューし、最初の劇場公開ドキュメンタリー作品である邊永主監督の『ナヌムの家』(96)が上映される。数的には相変わらず少ないが、この監督たちは現在まで絶え間なく活動をしているという点で違う。2000年代には、韓国女性監督の数が飛躍的に増える。『子猫をお願い』(01)の鄭在恩、『バス、停留所』(02)のイ・ミヨン、『アメノナカノ青空』(03)のイ・オニ、『ミスにんじん』(08)のイ・ギョンミ、『今、このままがいい』(09)の夫智瑛、『うちにどうして来たの』(ファン・スア)、『虹』(10)のシン・スウォン監督などがデビューし、 90年代にデビューした女性監督とともに現在まで作品活動を続けている。
このような変化の裏には女権の成長と女性教育への恩恵の拡大による女性の専門的な人材の増加という1次的な背景があるが、具体的には韓国映画製作現場の変化が原因として挙げられる。
韓国映画界を支配していた徒弟システムが弱まり、監督の役割が権力を持った司令官というよりは仲裁者、調停者という役割に移りながら、女性監督たちが立つことができる足場が用意されたということである。
女性監督たちは徒弟システムを経ず、留学経験や短編映画の受賞を通じて監督デビューの機会をつかんだ。韓国有数の短編映画祭では毎年相当数の若い女性映画監督たちが受賞をする。このような韓国映画の文化の変化とともに注目しなければならない重要な人材はプロデューサーである。
プロデューサーの場合は90年代中盤からキャラクターの確かな女性たちが多数布陣している。
そして、デジタルカメラの普及による低制作費と撮影の簡便さという恩恵もある。
また90年代中盤から始まり、今では数えきれないほど増えた韓国の各種映画祭も、彼女たちに上映機会を提供した。新たな価値と美学を表現する映画を尊重する映画祭は女性監督たちの映画を歓迎した。
そして、韓国は90年代から地方自治体制が実施されたが、特に女性週間や女性の日の行事のため、女性映画のプログラムを必要とする地域政府が多くなった。
女性監督たちの映画を、ある傾向で整理することはできない。女性として自意識がとても強い映画もあり、女性がほとんど言及されない映画もあり、同時に芸術映画もある。しかし、彼女たちと彼女たちの映画が見せてくれる他の力は、少なくとも“反男性的なこと”、“反主流的なこと”と見ることはできないだろうか。